なら、魂を売り渡すんだな

クロスロード (1986年)

- 伝説の十字路 -

ウォルター・ヒル監督は、この映画〜“クロスロード”を撮っている最中、メチャ幸せだったんだろうなぁ。

所謂“映画ファン”にはウケがあまりヨロシクないらしいが、この手の音楽が大好きな人間にとっては“至上の作品”となっているのだな。

前作にあたる“ストリート・オブ・ファイヤー”がロックンロールの寓話なら、この“クロスロード”はより遡った“ブルース伝説”の再現である。
冒頭で描かれるロバート・ジョンソンの初レコーディングシーンで、この映画に対するスタッフの極めて真摯な姿勢が垣間見えてきたり。
ま、ぶっちゃけて書けば「白人によるブラック・ミュージックへのリスペクト」以外の何物でもないのだがね(この点では、大好きな“ブルース・ブラザース”と同じなのかも)
ディレクション以外にも、肝心要の音楽担当が白人のライ・クーダーにスティーブ・ヴァイだったりするのだから、推して知るべしである。

つか、黒人自身が仕切ってこの手の映画を作ったら、また違う感触になるんだろうねぇ。
で、オレ自身“白人が撮った映画”だからこそ、このクロス・ロードにしても、ブルース・ブラザースにしても、メチャクチャ愛着が持てるんだと思うし。
――と、ここで断っておくが「白人が撮ったから、この映画は優れているんだ」等と言った、人種差別的な意味合いで、こんな事を書いてるんじゃないよ。
ブルースサウンドに対して、当事者(黒人)ではない第三者(白人)が撮った映画だからこそ、オレのような黄色(第四者……ぐらい?)でも感情移入し易くなっているのだな(もし仮にスパイク・リーあたりがこの手の映画を撮っていたら、果たしてここまで素直に楽しめるかどうか……)
つまり良くも悪くも極東の平和な島国〜日本で生まれ育ったオレでは、“ブルース”といった“黒人文化”を受け入れ憧れる事は出来ても、「おそらく自分がソコに辿り着くことは、永遠に叶わないだろう」と諦観せざるを得ないワケでさ。
加えてリズム&ブルースの進化した形でもあるロックンロールですら、結局は黒人と白人(というより、米国と英国)の音楽なのだから悲しいもんである。
そりゃ、日本ナイズされたロックは沢山あるし、好きなミュージシャンも大勢いるが、さ。

何か愚痴ばかりになってきたので、ここらで話を元に戻しますかね(笑)

ま、映画ってのは、観る人間に夢を与えてくれるからね。
クロスロードの主人公〜ユージンに自己投影して、伝説のハープ奏者を探し出し、2人だけで路銀も持たずにエレキ片手にアメリカ南部〜ブルースの旅ができるのだ。
ブルース・サウンドにまつわる厳しさや、優しさ、辛さ、楽しさが、かなりリッチな気分で擬似体験できるのだから、こんなに楽しい事はないっス(ついでに、行きずりの女の子とのブルージーなラブロマンスもね)
ウォルター・ヒル自身も「そのつもり」で撮ってるんだろうし……そう考えればこの映画、ひどく私小説的な作品とも言える。
ただ、なんつーか、クライマックスのユージンとジャック・バトラー(ご存知スティーブ・ヴァイご本人)のギターバトルなんだが……
確かにエンターテイメントとしては燃え燃えの展開で、すげぇ迫力あるんだけどさ――よくよく考えてみると、イロイロ引っかかるんですよ。
だってユージン、クラシックの技法でヘヴィメタルなギターをやっつけちゃうんだもん。
既にブルース関係ないやん(笑)
とはいえ、悪魔(レグバ=ブードゥの神様)は“スクラッチ”だし、ハードロック〜ヘビメタだし、ギターバトルは白人2人の勝ち抜き戦だし……
そんな2人を見守るのが、黒ずくめの身なりをした黒人たちばっかりってのも、これまた……
つまりこの映画が製作された時点(80年代)のミュージックシーンを考えれば、このシチュエーションはかなり風刺性の強い場面と捉えるのが妥当なのかもしれない。

優れた音楽とは過去においてのみ存在するのではなく、かといって偉大な過去へのリスペクトなしに“現在の音楽”はあり得ない。

ロングアイランド・ブルーズマン(笑)はミシシッピー・ブルースを体験し、確かな成長をした上で、次に続くシカゴ・ブルースへの道程を歩んでいく――

無事悪魔との契約を破棄したウィリー・ブラウンは、年老いた足で再び十字路に立ち、若き相棒に呼びかける。

「さぁ、突っ立ってないで、行こうぜ! シカゴまでは一緒だ!」

そう、伝説のクロスロードとは、“いつまでも立ち止まっていてはいけない”場所なのだから……

2005年7月1日(金) 





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