彼女は何処だ!?

スパイダーマン2 (2004年)

- 愛すべき隣人 -

 さてさて本日のお題は、満を持してのスパイダーマン2にございます〜
 で、これがまた面白いの何の!
 アメコミヒーローの映画化って、一部を除いてマジに傑作ぞろいだよな。
 古くはスーパーマン1〜2から始まり、バットマン1〜2にXメン1〜2、そしてこのスパイディ1〜2である(書き並べて気付いたが「3作目からは駄作」のジンクスがチラホラと(笑) Xメン3とスパイディ3は何とか頑張って欲しいものである)
 ま、どの映画も描かんとするテーマが違うワケだし、単純に比較はできんけど……
 それでも作り手のヒーローたちに対する思い入れが炸裂しているという点では、ロード・オブ・リング等と同じなのかも(いい意味でのオタク世代の台頭とゆーかね。Xメンのブライアン・シンガーはちょっと違うと思うが)
 さて本題のスパイディ2について語ると成れば、やはり監督のサム・ライミとVFXのジョン・ダイクストラだろう。

 ダイクストラについては以前この日記にも書いたとおりで、このパート2でも実に素晴らしい仕事をしているよ。
 ニューヨークの街並をアクロバティックに跳ぶスパイディの映像は、やはり余りに中毒性のあるスタイリッシュなモノとなっているし、特撮パートで映画的名場面を創作するダイクストラの面目躍如である!
 しかも今回は敵がドクオクという事もあり、前作以上に立体的なバトル・シチュエーションが増えており(要は壁を床にしたような感じのシチュエーション)、物理法則を劇中においてある程度正しく描くことで、奇妙なリアリズムとトリッキーさが表現されているのだな。
 エネルギー融合実験時における、擬似太陽が発する金属に対する吸引力(重力?)といい――
 メイ叔母さんを人質にとった際の、タワーでの垂直バトルといい――
 暴走列車をウェブによって(要は力ずくで)停車させるシーンといい――
 クライマックスにおいて壁(というより建物そのもの?)の下敷きになりそうなM.Jを、スパイディが身を挺して助けようとするシーンといい――
 働いている物理的な力のベクトルを、観客に対して常にリアルに感じさせるように表現しているのだ(前作以上に)
 この辺のコダワリはさすがダイクストラ大先生である。
 おかげでこの映画を観ている最中、ズ〜ッとそのセンス・オブ・ワンダーにシビレっぱなしとなり、ワクワクドキドキの連続となるのだ。
 御大がハルクをやってりゃ、あの映画ももっと良くなったろうに……はぁ。
 ………そうだな、落ちるってのは、この映画の重要なキーワードの一つなのかも。
 やたらと印象に残っているのだよ、落ちるシーンが。
 ウェブが出ずに中空より落下するスパイディ。
 クライマックス直前――ピーターが眼鏡を投げ捨てるあのシーン。
 そして川底に沈み行くドクオクと人口太陽……

 さて、ここでもう一方の立役者、サム・ライミ監督である。

 正直、この監督には御見それしました。
 前作もかなり出来の良い物語に映像だったんだが、このパート2は更に深みを増しているのだ。
 例えばドクオクをもう1人のピーター(スパイディ)とする描き方は、前作のゴブリンとスパイディの対比のさせ方と同じ方法論なのだがね(記号的な分かりやすさで言えば、蜘蛛もタコも同じ8本足なのだ)
 それをもっと切実に、そしてシリアスに深化させて描いている。
 ドクオクはメカニックアームに意識を乗っ取られている(本来の彼は善人)のだが、その境界線が実にファジー。
 グリーン・ゴブリンほど、その二面性を極端な狂気として描いてはいないのだ。
 これは本当に怖い。
 何故ならピーターは勿論、誰もがちょっとしたきっかけでドクオク的思考にチェンジしてしまいそうだから。
 具体的に言えばドクオクの場合は――愛する人の喪失のせいで、己の全てを「生涯をかけた夢」の実現にシフトしてしまったのだ。
 そこに個の欲望が増幅されていくプロセスが入り、倫理観は失われ(メイ叔母さんの「なんて卑怯な」という台詞はあまりに透徹だ)――
 ヒトの原罪でもある知恵の実は、4本のメカニックアームによって歪んだ熟し方をし(西洋人にとってタコとは、8本足の悪魔でもある)――
 最終的に融合エネルギーの暴走というカタストロフが、物語的に大きな意味をもってくる
 だからこそ、若き科学者ピーターの「正しい道の為には、夢を諦めなきゃならない事もある」という台詞が、ドクオクにとっての止めの一撃にもなったワケで……(腕力じゃカタが付かないってのも、これまたイイ)
 ファンタジーとしての小難しい話は、もうこの辺にしておこう(笑)
 ――というのもピーターは前述したように、若き科学者としてばかり描かれているわけじゃない。

 実は何処にでもいるような、ありふれた1青年に過ぎないのだ(ドクオクも事故に遭うまでは、ただの気のいい天才科学者だった)
 ドジで不器用、しかし真面目ですこぶるイイヤツなのだ(ピーターを首にしたピザ屋の親父ですら、そういう認識をしていた)
 ただ他の同世代の若者より、ちょっとばかし忙しすぎるのだ。
 スパイダーマンという街のヒーローをやっているせいでね。
 単純に言えば、時間が足りないと。
 唯でさえ金銭的に余裕のない苦学生だってのに、パトカーが傍を通るたびにスパイダーマンをやんなくちゃならない。
 講義には遅刻するし、デートにも遅刻する。
 ピザの配達だって勿論例外ではなく(苦笑)
 おかげでバイトは首になり、彼女にはふられる。
 正体を明かせないため親友のハリーとは気まずくなっちまうし……
 終いにゃ心労がたたり、壁が登れなくなり、ウェブが出なくなり(これってEDの暗喩だよな)、目が悪くなり……要はスパイダーマンとしての能力が失われてしまったのだ……踏んだり蹴ったりで、ほんにご愁傷様、である(落下の際、背中を痛めて去っていくピーターは涙なしでは観られないッス。車の防犯ブザーがまた哀愁を誘うっっ!)

 で、カウンセリングまで受けたりして(この時の医者への対応がまた何とも……)、遂には普通の男の子として人生を再スタートしようとするピーターだったが………

 ストーリーを追うのは此処までにしておきましょうかね。

 とにかく一つの青春映画として観た場合、このスパイダーマン2は実に秀逸な作りとなっているのだ。
 ピーターだけじゃなく、ハリー、M.J、メリー叔母さん、そしてドクオクと、実にキャラが丁寧に描かれているもん。
 ハリーが酔った勢いでピーターを罵倒し殴るシーンがあるのだが、そこがまた良いんだよ。
 自分からMJを奪い、親父を殺したスパイダーマンを庇うピーターを相手にしているのだ。
 普通の男だったら、グーで思いっきりぶん殴るだろう?
 しかし彼は何と言うか……ビンタしかしないのだな。
 ドクオクにピーターの事を教えたときもそう……何だかんだ言いながらも、彼の身を案じているのだ。

 何故ならピーターはハリーにとって、掛け替えのないたった一人の親友なのだから……泣けるよ、マジにさ。

 当然、こういった細かい心情描写は此処だけではないよ。
 MJだって実に細かい表情をしてみせるし、メリー叔母さんの旦那の死の真相を知った時のリアクションだってそう。
 みんな辛い現実を必死になって生きているのが、観ているコチラ側にビンビンと伝わってくるもん。
 そしてそんな厳しい現実だからこそ――
 列車の中での素顔を晒したスパイダーマンと他の乗客たちとのやりとりが、これまたシンミリと胸を打つ(「まだ子供じゃないか」って台詞が実にアメリカっぽい。日本では見失われつつある大いなる父性が、未だ確固なものとして人々の心の中に存在するのだな)
 つーかこの辺は、マジにウルウル状態になってしまいますた。
 特に前のめりに崩れ落ちようとするスパイダーマンの胸を、名も知らぬ人たちの腕が後ろから支えようとする刹那のシーンは、この映画屈指の名場面!(断言!)
 悩むピーターの夢の中に、死んだベン叔父さんが現れて励ますシーンも実に素晴らしい。
 ま、台詞の内容はともかく、そのシチュエーションが小憎らしいのだよ。
 だって、前作でベン叔父さんが最後にピーターを説教した、あのバンの運転席なんですよ!
 ピーターにとっては、タイムマシンに乗ってでも過去に戻ってやり直したいだろう、あの時間と場所――
 いや、もうこの演出には何と言ったらよいのか……
 とにかくサム・ライミがこんな映画をとれるなんてさ。
 だから前述したように、御見それしました――なのである。

 そうそう、それと妙に映画オタクなオマージュが散りばめられていたのも、意外といえば意外。
 特に個人的に大好きなニューシネマ系だってのが、嬉しい。
 劇中堂々と「雨にぬれても」がかかったり、スクーターの車輪が転がるあたりは(その意味合いも含めて)間違いなく「明日に向かって撃て!」だし、ラストの教会のシーンだって「卒業」そのものなんだもん(男女のリアクション自体はまるっきり逆だが、2人の暗澹たる未来を暗示させるニュアンスは同質)

 う〜書きたい事がまだ沢山あるよ〜(笑)
 しかしこれ以上長文書いても何なんで、本日はここまで。


2004年8月21日(土) 





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