目を開けとけ、私ゃ子守りじゃないんだ

リーグ・オブ・レジェンド (2003年)

- 超人紳士同盟 -

 以前予告編を観た時は悪い意味でB級臭く感じてしまい、何とはなしに今までスルーしていたのだがね。
 この前HAWKさんにオモシロイと薦められ、ま、その気になって迷わずGO!……なのであった(笑)
 いや、元々気になる設定だったし。

 ――で、結論から言えば、非常に面白い。
 英国系ヒーロー総登場な映画なのだが(トム・ソーヤは除く)、決してお子様ランチな作りになっていないのが素晴らしい。
 邦画で言えば魔界転生などに近いスタイルなのだが、そのテーマ性や奥深さでこのリーグ・オブ〜には足元にも及ばない。
 やっぱ向こうではファンタジーを真面目に作るんだよね。
 まず子供が楽しめるし、大人も知的に楽しむ事が出来る。
 これはもうしばらくは超えられない、圧倒的な壁なのかもね(その代わりに、日本にはアニメという独特の表現媒体があるのだが)
 日本の特撮映画は、このリーグ・オブ・レジェンドとは逆のベクトルに進化しているようだし……
 つまり何を言いたいかといいうと、テリー・ギリアム的嗜好性は、邦画においてはヒジョーに難しい、という事……かな?(笑)
 出てくるヒーローたちは全て何かしらのテーマを背負っているし、その映画としての構成も実にシャレている。
 見せ方や設定が実に舞台的なのだな。

 序幕〜アフリカ、クォーターメイン弔いの酒場。
 第一幕〜ロンドン、大英図書館の英雄たち。
 第二幕〜ロンドン、ドリアン・グレイの館。

 ………といったイカにもな感じで物語は進行していくのよ。
 英雄たちが時空を超えて存在している理由は、設定として劇中で一応の説明はされるが、それはあくまで名目上にすぎない。
 つまり本の中から飛び出してきたという認識の下に、ある程度のリアリズムを添えているだけなのよ。
 観客がそのシャレの部分を受け入れる事が大前提となっており、この辺が今作の評価の分かれ目でもあるのだろう。
 アラン・クォーターメインに吸血鬼科学者ミナ・ハーカー、ネモ船長に透明人間、ドリアン・グレイにドクター・ジキル。
 そして飛び入りの米国諜報部員トム・ソーヤ……

 舞台の幕を開くのはやはりオペラ座の怪人だし、作演出もご本人なら、実はキャスティングすらもご本人。
 怪人の正体は英国政府高官Mであり(やはりあのMのイメージなんだろうなぁ、J.Bもいるし(笑))、しかも更なる正体が何とあのジェームズ・モリアーティ教授なのである。
 これはやはり凄い説得力があるし、度肝を抜かれたっす。
 結果的にこの映画のシナリオ自体が赤毛連盟を想起させるし(ドイルの聖典では明確にされてないが、シャーロッキアンの間では赤毛連盟事件の裏にモリアーティが存在したらしいとの推測があり、それはほぼ定説となっている)、クライマックスにおいて雪原にダイブする姿はやはりライヘンバッハの滝を思い出さずにはいられない。
 その大英帝国斜陽の象徴たるモリアーティ教授の悪意に対抗するは、同じく女王陛下の名の下に冒険を繰り広げ、そして生きる事に疲れ傷ついた伝説の男アラン・クォーターメイン。
 体現するは数々の冒険を成し遂げたアフリカの大地に根付く神秘主義と、人間が文明の進歩と共に置き去りしてきた野生(獣性)そのもの。
 死に場所を探す老兵は新たな息子に全てをたくし、静かに倒れ逝く……(あの雪原での、老白虎との対面は実に印象的。やはりドリアン・グレイの肖像画と対になっているのだろうね)
 そしてそのアランの新たな息子、トム・ソーヤは、大英帝国の権勢を引き継ぐであろう新たな帝国主義〜アメリカの象徴なのだ。
 若く、無鉄砲――未熟さ故に失敗もするが、希望だけは持ち続けられる……そんなニューヒーローなのである。
 トムが二丁拳銃で処構わず撃ちまくるのも西部劇への揶揄だろうし、狩猟文化を伝統的に守る英国流を教え込もうとするアランとのやり取りも実に楽しい。
 もっともミナという、英国の伝統と知性をともなった女性にはふられてしまうがね〜(ヤンキーってジョンブルからは、根本的に馬鹿にされてるもんな)
 でそのミナ・ハーカー……彼女はドラキュラの女であり、あのヘルシング卿と共闘した勇士でもある。
 夫ジョナサンが死んだ後、ドリアンとも付き合っていたらしいが――
 彼女はドリアン・グレイと対のキャラといえよう。
 ドリアン(ジャック)にとっては殺めてきた数多くの女性たちの復讐代行者といえるしね(ドリアンを実在する殺人鬼切り裂きジャックとする設定は、実に絶妙。ありえないんだけどね……時代性と意味性を考慮すれば、なかなかにナイス)
 永遠の快楽と美を望む男は、その思いを醜いものと自己認識する事で破滅していき、不本意ながらも永遠を貰い受けた女は、男たちの屍を踏みしめながら生きていく……
 つまり永遠に殺しあうのが男と女であり、最後に勝つのは決まって女の方。
 男からすりゃ、なんともやり切れん話ではある(笑)

 ネモ船長も実に皮肉な設定だね。
 大英帝国の主な植民地だったインドの出身で、しかも時代を凌駕するオーバーテクノロジーの持ち主なのだから。
 虐げられた者が世界大戦勃発の危機に立ち上がるというのも、これまた心躍るシチュエーションだし。
 しかし彼を創作したヴェルヌがイギリス人だってのも、これまた奥が深い話であるよのぉ(笑)
 ジキル博士とハイド氏は知性と暴力のバランスを取る事で、己の存在意義を見つけ出す。
 つまり片方だけじゃダメなのだ。
 知性だけでは「何故、お前は此処にいる?」だし、暴力の過剰摂取は破滅を呼び込む事にもなる。
 クライマックスの巨人バトルは壮絶ながらも、その表現されるテーマとして、必ずハイドが勝利しなければならないのだ。
 つーか、同様のキャラが主役を務めたハルクよりも、旨い具合に表現されているよなぁ、この辺の部分はさ。
 透明人間たるスキナーは、おそらくクライマックスの火傷によって、ようやく人の型を示す事が出来るようになったのだろう。
 型を成さない……つまり人に見えないと、他者は人として彼を見ようとしないし信用もしてくれない。
 そういった人生はスキナー自身、もうコリゴリだったのかも。
 結局彼は成り行きで敵基地に潜入し、しかも裸で雪原をうろつく羽目になるのだがね。
 なんつーかそこまでしても尚、彼を信用する事はできなかったもんな。
 少なくとも初めにトム・ソーヤを襲った透明人間を、観客は誰もが初めスキナーと思ったはずだぞ(ワタシはそうだった)
 しかしトムを助けようとして火傷を負った彼を視認する事によって、やっと彼は心から信用できる人物になったともいえるのだ。
 そりゃ火傷の痕は醜いものかもしれない――しかし得体の知れない怪物と思われているよりは、信じられる人間としてそこに存在する方を、心底彼は望んでいたのだろうね。
 とまあ、こんな感じでキャラたちは重いテーマを背負いながらも、変転する舞台上で熱い口論を戦わせつつ物語を進めていくのだな。
 勿論普通の舞台ではあり得ない、純粋に映画ならではのド派手なアクションシーンも用意されているしね(ベニスのシーンは理屈ぬきで迫力あったなぁ。超人たちの個人技で事態を切り抜けようとするのは、良く出来たサイボーグ009を観ているみたいだったし(笑))
 ま、無粋を承知で深読みさせてもらえば、ドミノ倒しによる街並み崩壊は、戦火が飛び火し拡大していく世界大戦の様を想起させるし、それをある一点で止めようとする乾坤一擲こそが、大海の剣が放つ文字通りの一太刀なのだからね(その道筋をつけるのがアメリカ人ってのも……)――こうやって観ていくと、表現としては隙がないよ、マジに。

 HAWKさんの語ってた通り、大海の剣ことノーチラス号やオートモビルもカッチョよかったしな。
 これでクライマックスに潜水艦戦闘を見せてくれたら、言う事なしだったのに〜残念


2004年3月14日(日) 



アフリカはアンタを死なせない…って言ってたよな
Great scene select

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