勝ったぞっ!

風と雲と虹と (1976年)

- 叛逆の英雄伝説 -

 この日記でもよく書いている事だが――
 昔観た古い映像作品を今になってDVD等で観直すと、以前の自分では判らなかった意外な側面を発見する事がよくある。

 今回、観直した大河ドラマ総集編『風と雲と虹と』も、ご多分に漏れない結果となったようだ。

 とにかくこの『風と〜』は大好きな作品だったのです。
 ――歴代の大河でもダントツにね。
 そしてそれは現在総集編を見直しても、変わりはしません。

 小学生の時、初めて最初から最後まで観た大河ドラマだったし、ビデオの存在しない当時の事情を考慮すれば、よほど自分に強烈な印象を与えていたのでしょう。
 大人になって海音寺潮五郎原作の『平将門』『海と風と虹と』も熟読したし、加藤剛といえば俺にとっては大岡越前よりも小次郎将門であった(感覚的に、藤岡弘がいつまでも本郷猛なのと近いかも)
 山本直純による勇壮なテーマミュージックも、いまだについ口ずさんでしまうくらい刷り込まれているしね。
 ――ちゅうか、今回DVDを見直して笑っちゃったのが、藤原純友のテーマである。
 何ときっちり『憶えて』いたのだな。
 イントロ部分をちょっと聞いただけで、メロディが全部判っちゃったのだ(笑)
 メインテーマはCD等で聞いていたのでまだわかるんだが、こんなサブテーマまで憶えてたなんてな〜。
 人間の記憶力ってバカにならんってゆーか、マジすげぇ(笑)

 で、この『風と雲と虹と』――平将門・藤原純友の物語(承平・天慶の乱)とは、ま、単純に言えば日本史上、最もシンプルで解りやすい(しかもある程度資料の存在する時代における)『伝説的な英雄譚』の一つと言っても良いだろう。
 平安時代・中期――朝廷や貴族による理不尽な圧制に不満をもった地方豪族や民が、武士や海賊の型でもって叛逆を起こす物語なのである(天皇への叛逆という意味においては、『太平記』の主人公――足利尊氏も同様だろう。それよりずっと昔に映像化されているのだから、ある意味驚きである。もっとも想像できる理由は結構シンプルなのだが……詳細は後述)
 そこには、よく大河でも取り上げられる戦国や幕末のような『時代の複雑さ』は、全くといっていいほど存在しない。)
 おそらくは、少し後の時代に巻き起こる武家同士の覇権争い(源平合戦)よりもシンプルである。
 だからこそ、小学生の私なんかでも素直に熱中できたのだろう。
 上京した小次郎を田舎者と馬鹿にする朝廷貴族たちには観ていて凄くムカついたし、小次郎の所領を掠め取ろうとする同じ平氏の叔父たちに対しても、同様の怒りを募らせたものだ。
 今になって考えてみれば、作品の放映期間の半分以上、観ていて悶々としていた事になる(ランボーの前半が半年続いたよーなもんか?(笑))
 よくもまぁ、小学生の私が嫌気も差さずに観続けられたものだ。
 しかし大河ドラマでは類を見ないほどの小次郎将門の無敵ぶりが、子供心をワクワクさせていたんだろうとも思える。
 検非違使(今でいう警察――治安維持部隊)になった小次郎は、盗賊の跋扈する京の都において、まさに獅子奮迅の活躍をするのだ。
 しかも、桃太郎侍も真っ青の立ち回りだったりするし(笑)
 後の数多の戦においてもそれは変わらず、寡兵によって敵大軍を撃破する局面というのは、観ていてやはり胸踊る映像だったに違いあるまいよ。
 だからこそ数少ない負け戦も、やたらと印象が残っている。
 物語の中盤に、小次郎が『かっけ』にやられて体調を崩した際、足の膝を叩いていたのを、いまだ鮮明に覚えているし――(今回観た総集編にそのシーンは収録されてなかったが)
 何より小次郎の最後も、ある意味『運のない負け戦』として描かれているのだ――史実がどうかは知らんがね。
 小次郎将門の戦いは、いつも『多勢vs寡兵』であった。
 これは間違いのない事実だろう。
 何故なら将門一門は所詮一地方豪族にすぎないし、それを包囲して叩こうとする勢力の方が圧倒的に多勢であるのは明らかである。
 それを常に勝ち続けていたのだから、そういった『不運な負け方』という事でないと、逆に納得できないという、奇妙な理屈になる(笑)
 つまりぶっちゃけて言えば、合戦場の風向きが突然変わり、予期せぬ流れ矢が『たまたま』小次郎の額を貫いた、という最後なのだな(飛来する矢をことごとく叩き落としたこの男が、である(笑))
 ま、三国志なんかの合戦と同じなんだろうね。――1人の豪傑が戦の勝敗を左右する、って意味で。
 それと平安中期という時代だからか、妙にオカルト的な描写が多いのも、子供にとって興味の対象となっていたのだろう。
 富士は火を噴き、シャーマンの神託が信じられた時代である。
 後年のソレらよりも、もっと土着的な呪術の香りを漂わせた――何とも生々しい雰囲気がある。

 そうそう、それと同時にかなりセクシャルな物語でもあった。
 吉永小百合演じる貴子という姫君の存在もかなり淫靡なものだし(汚れ役、ともいう)、物語の冒頭では土着集落における男女の『夜の祭り』も描かれており、子供心によく解らないながらも必死になって観ていたのだろうな(ターンAの成人の儀式を観て、すぐにこの作品を思い出したあたり、なんというか(苦笑))
 さて、一番最初にもあげたが、今回DVDを見直して新たに発見した事について書こうと思う。
 それは――

 「荘園の拡大や献上品ばかり要求するお上などは、この国を私物化しているにすぎない。例えるなら、まさに家を食いつぶすシロアリの如き存在であろう」
 「望みは叛逆、でござる」
 「勇気のある者は、盗賊となる」(罪人にこそ正義がある)
 「この大地は、貴族の物ではない。そこに住む人間の物だ」
 「俺は、都が燃えるのが見たかったんだよ、街も寺や社も内裏も一軒残らず焼け野原になるのが見たかったんだよ」

 つまり――妙に『左翼思想』全開な物語だった、という事なのだ。

 しかしその謎もクレジットを見直して、すぐにわかった。
 それもそのはず、脚本が『あの』福田善之なのである。
 学生運動の闘士で、しかもかなりの大物。
 俳優であり(何と初期ウルトラシリーズに端役で出演していたりする)、しかも劇作家の彼は、常にそういった立場からモノを創作してきた。
 代表作は自身の『学生運動』『革命運動』『反体制運動』をイメージして書いたと言われる『真田風雲録』なのは、衆目の一致するところだろう(この映画、真田好きの私としては当然チェック済みである。勿論、そういった意味合いの作品として)

 つまり将門と純友の敗北を、自分たちの敗北と重ね合わせて描いているのである。
 この『風と雲と虹と』は1976年放映――学生運動はとっくに下火となっており、その敗北感の中で『ロッキード事件』などに国民が怒りを憶えていた年でもある。

 だからこそ、この物語は
 「将門様はいつかきっと、我らの為に蘇る」――というフレーズで終わるのだ。
 人々(人民、と言った方がいいかも)の願い――その総意として。
 平小次郎将門とは、まさに彼らの憧れてやまない『力の象徴』だったに違いない。

 そして将門に対比される存在〜海賊大将軍・藤原純友こそが、福田善之ら学生運動の闘士たちの、リアルな投影であったと。

 将門(力)を失った純友は、京の目前まで海賊船団で肉薄しておきながら、撤退を余儀なくされる。
 先に上げた「俺は、都が燃えるのが見たかったんだよ、街も寺や社も内裏も一軒残らず焼け野原になるのが見たかったんだよ」――という台詞も同胞(海賊たち)から聞こえてくる。
 しかし、それだけじゃ未来が紡げない事も解りすぎていたのだ。

 敗北、絶望……そして僅かばかり残っている希望。
 何とも、あの時代の空気がリアルに反映されている作品である。
 俺はこういった左翼思想を全的に支持はしないが、それでも『真田』を後年好きになったり、無意識の内に将門の物語に惚れ込んでいたのだから、少なからず『そういった』素養はあったのだろうね(反体制ってゆーか、アンチ権威ってゆーか)
 ただどこまで左よりになれるか、って考えていくと、実はそうでもないらしいし。

 つまりこの作品の感想レベルで、モノを語るとするなら――
 面白い事に当時の私は、緒方拳演じる藤原純友があまり好きになれなかったのである。
 学生運動の闘士……っていうか、所謂『主義者』というヤツに対して、本能的に嫌悪を持っていたのだろう。

 つまり俺は思想的に、『左』にも『右』にも極端には寄れない人間らしいと(笑)
 ま、フツーの同世代人もこんなモンだろうし、もしもっと前に産まれていても、意識的にノンポリを通したのかもね。
 ――安彦良和あたりに妙なシンパシーを覚えたりするのも、そのせいだったりしてな(恥ずかしながら『シアトル喧嘩エレジー』は愛読書の一つデス)
 しかしこの『風と雲と虹と』を再見して、こんな感想を抱く事になるとは思ってもみなかったよ(笑)

 天下のNHKってのも、当時は凄くアナーキーだったんだねぇ……
 つーか、スタッフが上を騙くらかして企画・製作していたのかも(そんなわきゃないか)

 そうそう、最後に――

 若き日の草刈正雄はメチャクチャかっこイイ!
 男の俺から観ても、悔しいぐらいな〜(笑)


2003年4月28日(月) 



叛逆……でござる
Great scene select


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