第41回 観柳斎、転落

- ひび割れた“胡蝶の夢” -

 毎回毎回ただひたすらに、クライマックスのつるべ打ちである。

 大河ドラマ新選組!――
 後半戦に突入して、次々と死に逝く仲間にライバルたち……
 死と向かい合ったその瞬間こそがその人物の人生においての総決算であり、ドラマのクライマックスそのものなのだ。

 今週、忌むべき奸物であり、またある意味愛すべき小人物――武田観柳斎がサブタイ通り、ものの見事に転落し必然ともいえる死を迎えた。
 愛すべき……というのは、あまり当てはまる形容ではないのかもしれない。
 あんなのが傍にいたらムカつく事この上ないだろうし、実際に劇中の通りなんだろう。

 気弱でエゴイスト――保身が何よりも優先され、その為に周りの人が如何な迷惑を被ろうと(命すら落とす事になろうと)、知らぬ存ぜぬを押し通せる――そんな人間は普通に許せないだろう。
 しかし冷静に考えてみる。
 そんな厭らしくも情けない観柳斎的な部分は、誰だって少なからず持っているのではないか?
 だから彼の行動を全否定できなくなる――悪いヤツだとは充分承知しているのだが、厳しい糾弾ができなくなるのだ(少なくともオレはね)

 もちろん大方の人は良識やプライドによって、そういったエゴは表層に出さないようにする。
 良心に従い自分を律し、少しでも善き行動をとろうとするだろう……。
 だが観柳斎はそれが出来なかった――いや、そう見せる事を己自身で否定するタイプの人間だったのだ。
 皆に隠れて密かに河合の墓参りをする観柳斎。
 垣間見えたその独特の偽悪性に、沖田同様――視聴者は皆驚かされる事になる。

 観柳斎の生き様は、あまりに余裕が無い。
 チビで目が悪く、武芸もからっきし。
 人徳もなく、軍略の才も伊藤甲子太郎などには及ぶべくもなく(その伊藤ですら、西郷あたりと比べればまだまだ非力な小物として描かれている)
 その圧倒的な器量不足。
 それでも古き軍師は夢を見る。
   より勉強する事で、自分の力を世に知らしめたい……新選組の、お国のために役立てたい。
 結局、分不相応なその想いは、当然のように観柳斎自身をジワジワと追い詰めていく。
 「アレ(観柳斎)は俺だ」
 ――近藤の観柳斎への共感は、何よりもこの部分にある。
 近藤や土方が作り上げた新選組も、結局歴史の大局からみれば観柳斎と同様――あまりに無力で分不相応なのだから。

 力及ばず失敗し続け、回りに多大な迷惑をかけ疎まれる。
 自分のせいで、次々と仲間が死んでいき――
 心の弱さは、その責任から逃れる方向へと先走る。
 だがそこに微塵も悪意はないのだ。
 それが解るからこそ、近藤は進退窮まった観柳斎に「生きて責任をとれ」と迫るし――
 観柳斎にしたってその叱咤を蔑ろにするほど、人として腐れてはいなかった。
 だが彼の犯した数々の所業は、贖罪すら赦してくれなかったようだ。

 「近藤先生に預けられたこの命――ここでは死ねん!」

 剣の腕はからっきしの男が、大勢の刺客に相対し、たった一人で果敢に切り込んでいく。
 近藤の為にも……そして最後まで自分を庇った河合の為にも、観柳斎はここで(河合の墓前で)倒れるわけにはいかなかったのだ――

 しかしここで逆の見方をすれば、観柳斎の死は河合の死と共にあったのだとも思い至る。
 たまらんよな、このどーしようもない閉塞感は……

 物語はそんな観柳斎の悲劇に対しても、反対岸で冷徹にバランスをとろうとする。
 「ワタシが新選組を世界一にしてみせる!」
 「これからは世界ぜよ。カンパニーで商売をするんじゃ!」

 己の才覚一つで、国を動かし役立てる――世界に躍り出る!
 そういったおそらくは観柳斎が夢見憧れた生き様を、実際に成し得ようとしていた坂本龍馬が、次回ついに非業の死を遂げるのだ。

 今までの物語において構造的な部分で提示された、キャラクターの対となった配置。
 もう1人の近藤としての坂本龍馬。
 もう1人の近藤としての武田観柳斎。
 夢や野心に溢れた若者たちの、それぞれの人生――そして末路。
 歴史的な事実を、フィクショナルなドラマとしてモノの見事に符号させる三谷幸喜の脚本。
 ――まさに天才の仕事である。
 観柳斎にとってのせめてもの救い……
 それは屯所にて静かに安置された彼の枕元にある、ひび割れて歪んだ眼鏡。

 その激しい戦いの痕跡こそ、観柳斎が近藤に見せた最初で最後の“誠”なんだろうさ。
 

2004年10月18日(月) 





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