最終回 愛しき友よ

- 風が止んだ日 -

 大河ドラマ新選組!がついに最終回を迎えた。
 もう感極まってウルウルしっぱなしなのだがね(笑)

 いつものこの日記感想は観終わった後、ある程度日を置いて冷静になったところで書き込んでいたのだ。
 だが今日はラストだったワケだし、昂ぶった気持ちのままキーボードを打つ事にしようかな(ドラクエは先日終わったし(笑))

 それにしても異様に濃い密度の構成である。
 ま、それも当然だろう。
 この1年間で描いてきた様々なテーマを、この1本で端々まで拾い見事に帰結させているのだから。
 まずはこの新選組!という作品の、いわゆる歴史ドラマとしての最大の矜持。
 歴史を俯瞰し大いなる流れそのものを描く為には、政治やいくさだけではなしに、市井の人々の在りようこそを描くべきである――という事。
 近藤たちを取り巻く多摩の人々の丁寧な描写は、まさにその通りなんだろう。
 だが、個人的に一番のポイントは例の永倉の居酒屋でのシーンだ。
 まさかあの場面で祐天仙之助を討った大村達尾が出てくるとは思わなかったっす……
 しかもいっぱしの渡世人になっており(成長して?)、いまだに祐天の子分衆に付け狙われてるみたいだし。
 ま、平たく言えばヤクザの抗争なんだがね(笑)
 外では天下国家の分け目でもある幕軍vs官軍なのに、江戸の街の片隅ではそんな事とは関係なく命を張ったケンカが、ありがちな出来事として行われている。
 戦争であろうが平和なご時世だろうが、結局のところ一般の人々のやっている事は相変わらずなのである(左之助の息子に乳を与えるおまさの描写もその延長だよな)
 戦争とヤクザのケンカという対比も三谷流の皮肉が効いてるし、それを見届ける永倉新八というのも意味深ではある。
 というのも、此処にきてやっと永倉というキャラの役割が見えてきたのだ。
 つまり彼は結局のところ政治思想や野心とは関係無しに、ただ局長である近藤勇の友として新選組という組織に参加していただけなのである。
 勿論、土方や沖田、左之助、斉藤も根本的な動機は永倉と同様だろうさ(近藤の魅力に惹かれて)
 しかし皆あまりに盲目的に近藤に付き従っているのだ(土方ですらある意味、そう断言できる。組織論以外のトコでは、カッちゃんに頭が上がらないもんな)
 結局近藤に対して対等に意見し、それをキャラのテーマとして背負っていたのは、政治的な野心のあった山南を除き、永倉新八1人だけだったような気がする(左之助も似た様な位置づけだが、微妙に背負ったモノが永倉とは違うようで――っていうか、左之助は阿呆すぎて逆にポリティカルな面には関わってこれないのだ。他の大多数の隊士と同様にね)
 永倉は常に政治的な冷徹さに対して妥協することなく反発してきたし、まず第一に人情を優先してきた。
 軍事組織としての新選組に反発し、最後まで同志(仲間)の集合体としての認識を崩さなかった。
 だからこそ「こいつ、何言ってんの?」的な場の空気を読まない言動も多かったし(視聴者はどうしても“主人公のバランス”で描かれている近藤寄りになる)、真摯な姿勢で平助を助けようとする立ち回りにもかなりの説得力もあった(土方と杯を酌み交わす場面も、永倉じゃなきゃありえないだろう)
 ここまで書いてきて、もうお気づきの人もいるだろう。
 そう、そんな永倉新八だからこそ、等身大で個人の魅力に溢れた新選組の逸話を後世に残したのだ――という事を。
 永倉のプラベートな回顧録を元にした新選組物語が、在りがちに政治一辺倒の歴史ドラマになる筈はもうハナっから無いのだ。

   そんな情の深い永倉も、唯一惚れた女の情を最後の際で貰えなかったのである……
 永倉新八とはそういった星回りの男なのだろう。
 結局は近藤との仲も決別したのだからね。
 もっとも、だからこそ再会した宇八郎への贖罪ができたんだろうし、維新後の彼のとった行動もおそらくは――
 さて、次に取り上げるのは風車である。

 そう、あのクルクルと風を受けて回り続けるアレの事である。
 1年間通して死の予兆として、まるで死兆星の如く(笑)画面の端々に出現していた、アレの事だ(千羽鶴ヴァージョンもあり)

 印象的な場面は、やはり阿比留鋭三郎の脱退であろう。
 正直、あの場面での風車には、その意味合いが全く分からなかった。
 しかし今ならよっくわかる。
 阿比留は風車が止まる事を前提に、回し続けなきゃいかんかったのだ。
 風を受けるために、歩き続けなきゃいかんかったのだ。
 勿論、風車が止まらない前提の人々もいる。
 多摩の人々など、何もしなくても風が吹いており風車の勢いは一向に止みそうもない――むしろ近藤の斬首を目前に控え、風は強くなるばかりなのだ。
 そして捨助である。
 彼はおそらくあの境内?から、自分とカッちゃんの2人分の風車を拝借してしまったのだ。
 そう、風車が止まる事を前提にして――

 そして捨助一世一代の疾駆が風を呼び、そしてやがて片方の風車が静かに動きを止める。
 おそらくはもう一方の風車も、いずれは羽音を休める事になるのだろう……

 しかし捨助の望みどおり、二つの風車は共に風を受ける事ができたのだ。
 「愛しき友よ」……
 勿論、これは近藤の土方に対する想いであり、新選組の連中の断ち切れない絆のストレートな表現なのだろう。
 しかし近藤の想いと同じ程度に、捨助のカッちゃんへの想いでもあったのだ。

 あかん……
 書いてたら、またジンワリときてしまった(笑)

 しかしこの最終回、ほんとに密度が濃いよ(もっとも主人公たちは皆バラバラに散開しており、新選組!にあんまり思い入れのない視聴者には何とも散漫な印象なんだろうなぁ)
 まだ書きたい事は山ほどあるが、今日はこの辺にしておこうと思う。
 よし、最後に近藤とつねについて書いてシメとしよう。

 監禁先の屋敷の少女に一人娘のたまの面影を見いだし、死の諦めから一転し生への渇望を始める近藤。
 しかし彼を取り巻く状況は、確実に己の死へと時を刻み続ける……

 やがて流れのままに刑場に入る近藤と、それを見つめる妻つね。
 さりげなく視線を外し、近藤は妻に背を向ける。

 2人の視線が交錯する、その刹那――湧き上がる例えようも無い既視感。
 それは夢と野心にあふれ、仲間と共に京へ出立したあの日の情景。

 これから近藤は死に逝くはずなのに、どうしても旅立ちの情景が想起させられてしまうのだ。
 終わりと始まりが、己の尻尾を咥え込んだ蛇のように描かれていく……
 もしかしたらあの場面での近藤の死は、新たな近藤たちの旅立ちなのかもしれない。
 それは生き残った隊士たちかもしれないし、何も出来ずに見守る多摩の人々かもしれない。

 いや、そんな即物的なものではないのかも。
 奇しくも劇中にて土方為次郎が弟である歳三に語るように――
 百年〜二百年後の人々(つまり我々)が幾度と無く幕末の出来事(歴史)を調べ判断し、新たなる近藤勇をやはり幾度と無く旅立たせる事になるのだろうさ。
 虚実を含み、喝采と非難の両方を浴びながらね。

 伝説や物語とは元来、そうして語り継がれていくのモノなんだろうなぁ……


2004年12月13日(月) 




- 永倉新八と三谷幸喜 -

 昨日の日記、読み直したらやっぱダメダメだなぁ(笑)
 観終わった直後に書くと、やはり自分の中でも整理がつかないのかね。

 特に永倉新八についての部分は、何となく焦点がぼやけた書き方になっている。
 昨日のまんま、ってのも精神衛生上よくないし、さりとて今更改訂するのもなんだし……

 で、簡単に書き直すと、永倉の視線と近藤たちの視線は明らかに向いてる方向が違うって事なのだな。

 近藤や(特に)土方は常に上を向いており、その基盤である足元の部分を、ある程度犠牲にしても止むを得ないという認識にある(沖田や斉藤といった連中は、近藤や土方に無条件に付き従っており、非情な判断にも迷わずに同調してしまうキャラとなっている)
 だが、その組織の基盤を蔑ろにできないのが永倉や原田たちなのだ(ま、山南などは土方的志向性を持ちながらも、永倉的な人情性も捨てきれずに、その中途半端さ加減によって自滅してしまうのだがね)

 で、永倉のやってる事といえば、斉藤をヤクザの世界から足を洗わせたり、若者の敵討ちを手伝ったり、友人の許婚の面倒をみたり、給与や地位、出世の格差に苦しむ仲間を助けるための上司への直訴だったりするのだ。
 もうこうなってくると、ただの世話好きな人でしかないもんな(源さんの場合も永倉と似たり寄ったりだが、近藤や新選組の出世に理解を示している分、多少の冷徹さを持ち合わせている)

 そんな人情派な永倉だからこそ、最終話で仇討ちを手伝った大村達尾と再会し、何だかんだで健勝にしている姿を目にする事ができたんじゃないのか?(今まで永倉がとってきた行動に対する肯定要素の一つっていうかね)
 死んだと思っていた宇八郎と再会し、おそのに対するわだかまりを晴らす機会を得る事ができたんじゃないのか?(永倉自身の負い目に対する贖罪として)
 つまりはあのまま甲府で近藤たちと行動を共にしてたら、このヒトたちとはもう巡りあえなかったんじゃないのか?――っていう認識の仕方だ。
 勿論、こういったドラマ上の“if”を言い出したらきりが無いだろう。
 確かに永倉にとってはたまたま偶然に再会できたヒトたちに過ぎないのだろうけど、そこには物語として充分すぎるほどの必然性を感じるのだよ。

 劇中の描写における近藤や土方らの立ち位置は、そういったプライベートな部分をめちゃくちゃ犠牲にして成り立っているのが明らかだし、だからこそ激動の幕末において瞬間的にせよ、田舎侍風情で歴史の表舞台にでる事が出来たのだとも受け取れる。
 しかし対する永倉は2人と同時代を、新選組に所属しながらも最後まで庶民レベルで歩き渡り、後に自らの回顧録を出す事で、敗者である新選組の詳細を魅力的に後世へ伝える事が出来た。
 三谷幸喜の歴史観(市井の人々を大事に描いてこそ、歴史の流れが見えてくる)は、まさに永倉新八の生き様そのものと言えるのかも知れない。
 だからといって、劇中における三谷氏の分身が永倉とも思えないのだがね(笑)

 しかし大河ドラマの脚本を原作なしで引き受けた三谷氏の中で、まず新選組物語の大いなるルーツとなる永倉新八に対するリスペクトが大きかったのは事実だろう。
 だからこそ土方為次郎の「百年〜二百年……」の台詞があるんだろうし、その時空を超えた新選組の評価の一つとして、三谷氏自身の書きあげた「新選組!」の脚本があるのだろうから。

 と、まぁ、昨日の夜はこんな事が書きたかったワケで(笑)

 本日はこれにて。


2004年12月14日(火) 





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