νガンダムは伊達じゃないっ!

機動戦士ガンダム 逆襲のシャア (1988年)

- 富野ロボットの翼 -

 さて、今回は富野由悠季監督作品における、一種独特な“ロボット”のイメージ表現について書く事にします。

 氏は言わずもがな、押しも押されぬ“ロボットアニメ”の大家である。
 “無敵超人ザンボット3”以降(正確には“勇者ライディーン以降”なのだろうが、初志貫徹できなかったので除外)、最新作の“OVERMAN キングゲイナー”に至るまで、ただひたすらに巨大ロボットをアニメ映像によって表現してきたお方なのだ(例外は“ガーゼイの翼”ぐらいじゃね?)
 それだけに何だかんだ言って、ロボットのカッコイイ外連味溢れる見せ方が素晴らしく旨いんだよな〜。
 キングゲイナーなんて巨大ロボとしてはトンでもなくワケワカメなデザインなのにさ、本編開始前のOPの段階で、アレだけカッコよく見せちまうだもん(笑)
 やっぱ演出ですよね〜ロボットアニメはさ。
 とはいえ初期作品においては、番組の顔であるはずの“主役ロボ”に富野氏自身があまり良い思い入れを持っているようには見えないのだな。
 いや――むしろ歪んだ憎しみさえ感じてしまうかも。
 ザンボットにガンダム、ビルバイン、エルガイムMk2といった歴代主役ロボの見るも無残な最後といい、あの投げやりなイデオンのデザインといい(これは違うだろ(笑))

 “モビルスーツ”“オーラバトラー”“ヘビーメタル”〜等といった尤もらしい呼称も、別に「作品世界におけるリアリティ」云々じゃなくて、監督自身が「描く事に納得できるロボ」にしたかったダケ――じゃないのかしらん?
 つまり「やりたくてロボット物なんぞ、やってるワケじゃないのよ」――といった監督の迷調子が、実に嘘偽りの無いメッセージとして作品から聞こえてくるのだな(笑)
 それが、どーいう心境の変化なのか――“Zガンダム”のガンダムMk2あたりから、少しばかり様子が変わってきたのである。

 端的に現れているのが第1話のサブタイトル“黒いガンダム”だろう。
 白とは正反対の黒。
 “連邦の白いモビルスーツ”が、続編では“ティターンズ(連邦)の黒いモビルスーツ”として登場するのだ。
 まず最初に感じられるのは、やはり監督の視聴者に対するちょっとした悪意だろう(笑)
 そして何よりも、視聴者の視点が“地球”連邦から、スペースノイド(宇宙生活者)へと変更した事への符号でもある。
 だからこそカミーユ(反地球連邦=スペースノイド)たちがガンダムMk2のカラーリングを、本来的な意味での白に“戻す”のだな。
 で、続けて登場するのが“肥大化した黒いガンダム”ことサイコガンダムなのだから、作品的に非常に判り易い構図である。
 しかも搭乗するのは連邦上層部の操り人形としてのニュータイプ(強化人間)〜フォウ・ムラサメなのだ。
 この辺を細かく咀嚼していけば、軟禁状態のアムロはニュータイプの力を良い様に利用されていなかった分、まだフォウやロザミアに比べればマシだったと言えるのかも。

 ……と長々と書いてきたが、つまりはそういうことなのだ。
 この作品から富野監督は主役ロボの設定やイメージに、作品中での「深い意味合い」を明瞭に加え始めたのだな。

 で、次に出てくるのは真・主役メカの『Zガンダム』だ。
 コイツのポイントは、大気圏への自力突入、及び戦闘が可能な点である。
 そう、本作品でしつこく語られている「重力に魂を引かれた人々」に対するアンチテーゼの一種として、このガンダムは設定されているのよ。
 カミーユが大気圏突入時における戦闘で、一方的な屠殺を行ってしまうのも、これまたニュータイプに対する、別の意味でのアンチテーゼ。
 つまりヒトの変革が、ウェーブライダーには投影されているのだ。
 そしてウェーブライダーの形状は、航空機―― というよりも“翼”そのものといっても良い。
 “翼”とは、ヒトが“翔ぶ”ためには必要なりし“力”である。
 そう考えれば“Z”のヒト型から“翼”そのものへと変形するというプロセスが、かなり重要な意味を持つ事となるのだ。
 しかも発案者はカミーユ(ニュータイプ)自身だし。
 だからこそ最終回の“Z”は、ウェーブライダーの状態で物語のケリをつけるワケで……

 つまりここにきて富野氏は、従来よりのビルバインやエルガイムMk2などに垣間見える玩具的な縛り――つまりロボの変形〜翼の表現に、独自の意味性を加味し始めたのである(もしかしたら“Z”開始直前に氏の執筆していた小説〜“リーンの翼”あたりで確立させたモチーフなのかも)

 そして個人的にはどーでもいい“ZZ”を挿み、いよいよ真打ち〜“νガンダム”の登場である。
 これが、もう……大好きなのだっ!(笑)

 ポイントはやはり“ユニコーンのエンブレム”に“片翼”ですな。

 ユニコーンには色々な意味があるのだが、ま、通説的なモノでもかなり“逆シャア”におけるアムロのキャラに被ります。
 ヒマな方は是非調べてくださいな。

 しかし何かで読んだのだが、文学的、というか文化人類学的……な意味合いだったかな?
 ――その本のタイトルは忘れたんですが(立ち読みだったもので)、そーいった見地からユニコーンのシンボルを解説すると――
 「歴史の流れに置いて、古えより培ってきたモノを否定せず、その積み重ねの中から産まれ出る、美しく高貴なものへの期待や憧れ。それに殉じる行動や意志」
 ――とゆーよーな事が書いてあったんですよ。
 どーです?
 まさにこれこそ“逆シャアのアムロ”でしょ?
 この本を読んだ瞬間、もう“逆シャア”についてモヤモヤしていたものが、パァーッと晴れたというか(笑)
 もう、なんてカッコいいんだ、このガンダムは、みたいな。
 まさに「νガンダムは伊達じゃない」んですよ、うん。

 それに加えてファンネルのシルエットが“片翼”に見えるデザインが、また素晴らしい!
 機体色も相まって、まさに“翼がもげた天使”のイメージ。
 そうなんですよ。
 天使になりきれなかったアムロだからこそ、あのようなラストを迎える事になった……
 そう――天使の羽(勿論、ニュータイプのみに扱えるフィンファンネル)を使い尽くした“νガンダム”は、既に翼を持たない只のヒト型にすぎないのだ(だから最終手段として、“敵”と素手で殴り合ったりもする)
 そこにアムロの持つ“ユニコーンの想い”が重なった時、せつなさが大爆発するんですよ、あの映画。

 ま、こういったキリスト教的な解釈の根拠としては、ラストの成層圏を飛翔するサイコフレームがどうみても(形状を変えた)十字架にしか見えない点や、アムロの「わかってるよ、だから世界に人の心の光を見せなきゃならないんだろ?」といったあまりにストレートな物言いなどがあげられる(さしずめ落下するアクシズは“ゴルゴダの丘”ってところか)

 ――とか書きながらもこの“フィンファンネル=白き片翼”という構図には、もう一つ別の解釈が出来たりもするんですよね〜(つか、意味合いが重層的に表現されているというか)
 アレですよ、ファーストガンダムにおいて雨の中「かわいそう……」とララァが呟いた、怪我をして飛べない白鳥の事ですよ。
 ご丁寧に“逆シャア”においてララァは、元気に羽ばたく白鳥の化身としてアムロの夢に登場するのである。
 って事は、つまり傷ついて飛べない白鳥こそが、アムロ=νガンダムであると。

 で、“翼”状態のままクライマックスを迎えてしまったカミーユが、肉体的に生き永らえつつも魂を開放しきってしまうという悲劇に見舞われた事を考えれば、この“逆シャア”の迎えた結末が“Z”のソレとは正反対なのがよくわかる。

 事の良し悪しはともかく――
 古きヒトとして天命をまっとうできたアムロ(とシャア)は、観ていてカミーユのソレよりも数倍感情移入できるんだよね。
 確かに映画を覆うムードは悲劇調となっているが、アレはアレで彼らにとっては納得の出来る最後だったんじゃないのかなぁ……
 ――とはいえ、正直な話、この逆シャアだって初めて映画館で観た時は「何じゃ、コリャ」だったんですがね。
 ま、ビデオで見直して大好きになった映画であり、それはそれでありだな、と(苦笑)

 しかし、そう考えると非富野ガンダムの『Wガンダム・ゼロカスタム』なんぞ、捻りがなさすぎてデザイン的にもツマランというか……(ストレートな分、普通にカッコいいけどな)

 “逆シャア”以降に登場する“フェイスオープン・F91”や“光の翼・V2ガンダム”も、なかなかナイスなマシンなんだけどね――やはりこの“νガンダム”は歴代富野ガンダムの中でも別格に好き!

 “νガンダム”最高っ!!


2005年10月20日(木) 

※2002年5月25日(土)の日記を大幅改稿


どうしたんだろ……怖い声……
Great scene select


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