まりん……今にも胸が張り裂けてしまいそうだ……

BRIGADOON まりんとメラン (2001年)

- 極彩色の絆 -

今日は、借りていた“まりんとメラン”のビデオを6話ほど、まとめて一気に観てしまいました。

いやぁ、いかんなぁ……涙腺がゆるくなったよなぁ。
私も歳をとったとゆーことか(苦笑)
“サヴマトン・カラー”から“箱船”まで、まさに怒涛の悲劇が釣る瓶打ちに展開いたします。
極彩色の世界の中で逃れる事の出来ない重く冷たい現実が、あまりに辛すぎる哀しみを伴いながら、まりんの小さな背中にのしかかってくるのです。

帰るべき長屋は瓦礫となり、学校に行けば“世界異変の元凶”と同級生には疎まれ憎まれ、苛めっ子からは殺されそうにさえなる。

また、別の殺意もまりんを付け狙う。
それは万博会場で愛娘を殺された母親の、止められない狂気。
とはいえ、逆上した一個の人間の激情を、小学生の彼女に受け止められるワケがない。
襲撃者同様に恐慌に陥り、そして僅かに残った生存本能のみでリアクションをするのが、小さな彼女にとっての精一杯である。
そして1人ボロをまとい、雪の降りしきる街をさ迷うまりん。
メランと別れて以降何も食べてなかった彼女は、襲い来る飢えに耐え切れず、遂にはパン屋の店頭に陳列されている“異常に高騰した”パンを盗もうとすらしてしまう。
そんな最低の状況の中、懐かしい“先輩”との再会が、彼女に一時の安らぎをもたらしたかに見えたのだが――。

今度は回復の見込みのない“失明”という受難が、まりんに襲いかかる。

結局、彼女の見えない足取りで帰る場所はたった一つ――“銃剣士メラン・ブルー”のところしかなかったのだ。

うう、ツラツラと書き出してみましたが……ヒドイ話ですよねぇ(泣)
大体OPフィルムからして、悲劇性がバリバリですもん。
でもだからこそ“まりん”と“メラン”の二人の約束――“リボンの絆”が、まるで最上の宝石みたいに思えてくるんですよ。
小さく、堅く、傷つきやすく、それでいて余りに綺麗な輝きを放つ、世界にたった一つしかない……そんな宝石。
“ブリガドーン”と“ファニーランド(地球)”の“等価崩壊”とは、まさしく世界の崩壊を意味するようです。
しかしそんな終末の中で次第に力強く、そして煌びやかに輝きを増していく“まりんとメラン”の2人が育む、密やかな宝石。

そんな事を考えていると、ふと思い浮かぶのが“クレイス・マリーン”のアンプルの存在。
――これは一体二人に何をもたらすのか?
取り敢えず萌ちゃんが大変な事になりそうですが(笑)

“モノマキア・コスモス”の破天荒なヴィジュアル・イメージといい、“ロロたち”といい……やっぱ、米たに監督は凄ぇよなぁ。
つか、大好き(笑)

あ、あと無意味に乱発されるサービス・カットも(笑)
でもこれって、地上波では絶対放送出来なさそう……。
   

2001年2月4日(日) 





- 恋と絆 -

「まりん……今にも、胸が張り裂けてしまいそうだ……」

名台詞である。
本編クライマックスにメランの発した“この言葉”のおかげで、“まりメラ”は私にとっての“至高の名作”になってしまった、と言っても過言ではあるまい。

つか普通に考えてみれば“中一少女”(とは言っても、ルックスは小学生並)と、人ならぬ“生体兵器”の大マジなラブ・ストーリーなんて、本来まともに描けるワケがない筈なのです。
まぁ“プラトニック・ラブ”に限定すればありえるのかもしれませんが……
肉感的な繋がり(つまり、セックス)をも意識範囲に入れた関係など、どう考えてもマトモではありません(他のこーいったレオン系作品は、その辺を意識的に抑制しているもんな。“劇場版ナデシコ”とかさ)
しかしまりんとメランの二人は、あくまで“対等な恋人同士”として、強い絆を築きあげていくのである。
お互いにジェラシーも感じるし、直接的な“ちゅう”もする。
まりんは今輪の際に「私の全部をメランにあげる」と、最後まで彼につくそうとする。
両手が刀とライフルのメランは「この腕ではまりんを抱き締めたくても、傷つけてしまう」と、嘆き悲しむ。

で、この作品が凄いのは、そこに少女趣味的な“いかがわしさ”や“病的な心象”が一片たりとも存在しないところでしょうね。

まず理由の一つとして、展開に充分な必然性が与えられている事が挙げられる。
つまり――
“まりんが少女である必然性”
“メランが亜人である必然性”
そして“この二人が心身共に、強い絆を結ぶ必然性”
――これらが物語的に必要不可欠なモノとして描かれているのだな。
それぞれの“必然性”に対する細かな考証は、ここでは止めておきますが……

ま、恥ずかしげも無く単純に書けば、ぶっちゃけ“真(まこと)の愛”が、間違いなくそこにはある、とね。
つまり“ベターマン”“ガオガイガー”から引き続く“世界と人類種”を描く壮大なSFファンタジー”と、あまりに普遍的な“王道のラブ・ストーリー”
……この二つが見事に融合したのが、この“まりんとメラン”という作品なのかもしれません。

二つ目の理由は、恋愛以外にも“大事な他者との絆”が数多く描き出されている点でしょう。
人は一人でも……勿論“二人だけ”でも生きてはいけない。
――そんな当たり前の事を、きちんと作品内で描いているだけなのですけどね。

クライマックスにおいて、脇役にいたる登場人物の殆どにフォローが入る(物語上の役割が明確になる)のも、あまりにお見事でした。
未曾有のカタストロフを体験した人々―― そんな彼らの示す“これからの生”が、唯々単純に感動を呼ぶのです。
シリーズを通して観てきた者としては、これ以上の幸せはないのかもしれません。
そーいや、いま気づきましたが、ロロがしたまりんへの最後の挨拶――。
第1話で2人(?)が出会った時に交わしたポージングなんですよね(笑)
細かな演出ですが、最後の別れが物語冒頭の出会いとリンクするという、気の利いた表現なんでしょう。

終わりは始まりのプレリュード、ということか。
――やっぱこの監督の作品は好きだなぁ(笑)

あっ、最後に一つ――、クライマックスの3銃剣士揃いぶみと“コスモス・メラン”は燃えまっせ〜〜〜!


2001年2月20日(火) 


愛してる、メラン!
Great scene select


HOME