帽子ぐらい、とれよ

クロウ 飛翔伝説 (1994年)

「もう還るよ、シェリー……」

 さて、今回はアレックス・プロヤス監督の“クロウ〜飛翔伝説”について、である。

 長いこと映画を観ていると、時折り“こんな映画”に巡りあうんだよなぁ。
 実にバランスが良いと言うか、絶妙というか、奥深いというか……つまり何処にも文句のつけようが無い、っていうね。

   あくまでも洗練されたスタイリッシュな映像は、軽薄な表現として物語を貶める事も無く、物語に独特な詩情を溢れさせているし、登場人物たちもある意味パターン化された配置をされながらも、実に奥行きのある言動をしてみせる。
 荒筋だけ見れば、オカルトチックなダークヒーローを描いた、ただのB級ホラーアクションに過ぎないんだけどね〜(笑)
 結局さ、たとえどんなに使い古されたネタであっても、その中で如何に真摯に物語や人間を表現しようとするかで、作品の質は決まるってことですな。
 街のチンピラに陵辱〜殺害された恋人シェリーと“自分自身”の復讐を果たすため、カラスの力を借りて文字通り墓場より蘇る、不死身の死人(変な日本語だ)〜エリック。
 そして2人が生前面倒を見ていた、孤独な少女〜サラ。
 加えて、エリックとシェリーが殺された際に尽力し、そのせいで見回り警官に降格してしまった元警部〜アルフレッド。

 このようにある種のパターンに則って配置されている登場人物たちが、実に繊細で重層的な表情を魅せ、琴線に引っかかる台詞を吐きまくるのだ。
 ムロン各人の置かれている立場は如何にも“映画らしく”、現実離れした異様な状況ではある(つか、死者が蘇っている時点で、既にどうしようもなくファンタジーだ)
 が、その舞台上で描き出される心象風景は、誰にでも共感できるような、普遍的なリアリティを持っているのだな。
 例えば、ありがちな例を挙げてみれば――
 こういった“復讐モノ”の映画では、物語の進行と共に主人公の心情が尋常ではない狂気へと加速していき、観客からすれば感情的に置いてけぼりを喰らう場合が多々あるんだよね。
 つまり日常から逸脱したリベンジャーの持つ、あまりに切羽詰った精神状態が、第三者のシンパシーを得られなくなるパターンである。
 まぁ、平々凡々な日常を生きる我々観客が、そんな殺伐とした心情を真に理解できるはずはないのだが(優れた監督さんってのは、ここら辺で観客を“呑む”のが旨いのだな。理屈抜きで納得させるっていうかさ。スピルバーグ監督の“激突”なんかは、その典型だろう)

 しかしこのクロウの主人公〜エリックの心情には、何故か痛いほど共感出来るのだ。
 一度死んだ人間で、尚且つかなり残虐な復習劇を展開しているにも関わらず、である。
 結局、プロヤス監督のキャラクター演出が絶妙なんだろうね。
 エリックの抱く復讐心が、“悪党連中に受けた苦痛”と釣り合いの取れる量しか放出されてないんである。
 ――決して過剰ではない、と。

 つまりこの“クロウ”というダークヒーローは、復讐の対象たる悪人たちには凄まじい程の“狂”を見せるも、それ以外の一般人〜サラやアルフレッドに対しては生前同様に、普通の感情を持つ心優しき一青年として接するのである。
 これって、何気にスゴクね?(笑)

 生き返った事への戸惑いと、過去の悲劇を再度“知る”事への苦痛。
 そういった逡巡と苦悩の最中に見せる、関係の冷え切ったサラ母娘に対する気遣いや、“あの事件”以降閑職に追いやられカミさんにも逃げられたアルフレッドに対する敬意と同情。

 で、この辺のドラマ…っていうか、言葉選びが実に秀逸な脚本になっててさ。
 ツラツラと例を挙げてみると――
「アンタの娘はいつもアンタの帰りを待っている」
「こいつ(タバコ)は止めた方がいい。体に毒だ」
「ちゃんとドアから出て行くよ」
「いつかは晴れる日もある」
「こうすれば寂しくないだろ?」
 ――等といった実に胸に染み入る台詞の数々を、凄惨な復讐劇の最中にいる男がサラリと吐くのだからなぁ……
 そも生き返って偶然路上で再会したサラに「ピエロ?」と問われて、エリックは苦笑いしながらも素直に肯定してみせるのである。
 施された白塗りメイクの意味と、己が立ち位置に哀しいほど自覚的な死人の青年。
 観ているコチラもついつい感情移入しちまって
「エリック……お前ってヤツはよ……」――なのである(苦笑)

 そうそう、エリックに叱られ改心した母親とサラの朝食時のやり取りが、これまた実にイイのよ。
 いつもと同じ朝の食卓において、チョットだけ変わった母親と、それに戸惑いながらも少しづつ母に歩み寄るサラ。

「(目玉焼きの)裏も焼いて。両面焼くのが好きなの……ママ……」
 ――ってな具合で、この2人の感情の流れが実に自然で良いアンバイなのだ。

 ただ敵対する悪党たちは、そういった主人公側の平凡な造詣にバランスを取るが如く、圧倒的な“狂”の描写となっている。
 残酷、冷酷、非道な文句なしの悪党連中で、極端にフィクショナルな表現になるのは致し方の無いトコロだろうて。
 しかしこの作品の面白いトコロは、こういった悪党連中の存在を否定もしてなければ、肯定もしていない点である。

 つまり現実的に見れば程度の差は有れ、こういった“理由無き悪意”は無条件にヒトの世に存在するモノなんだろうし、その存在自体をどうこう言っても仕方の無い事なのだ。

 ただ被害を受ける“普通の人たち”は、ヤラれたら当然ヤリ返したいワケだし、ヤラれる前に何とかした方が断然に良いのである。
 そもそもこういったヤバげ連中とはハナっから関わらない方が、利口な生き方でもあるのだ(シェリーの設定は、そういった“薮蛇を突く愚かさ”を意味しているフシもある)
 う〜む、実に小市民的なテーマだよな(笑)
 こういったファンタジーのヒーローものだと“善対悪”だとか、“光対影”だとかいった大仰なテーマに成りガチなのだが。
 エリックも直接的な復讐を果たしたら、敵ボスを倒さないうちに成仏しようとしているし(笑)
 結局、ハードボイルドなんだよね、この割り切り方ってさ。

 もっとも敵ボスには妙な思想(悪党の美学)がある辺り、エリックと実に旨い対比となっているのかも(敵のNo2(黒人)と、アルフレッド(こちらも黒人)もね)

 ま、何にしてもこの映画――
 非常に感情移入しやすく、そして何よりもオモシロイ映画ですよ。

 アクションは全編派手だし、ロック的な描写も実に堂に入っている(このロック的な描写って、センスがないとめちゃダサクなるからなぁ)
 そしてワタクシがこれまでに散々書いてきたように、随所でホロリとくる描写や台詞があるのです。

 ラストシーンの、冥界からエリックを迎えに来たシェリーの姿には、もう何ていうかさぁ……





2006年3月27日(月) 


此処にいる奴ら、皆殺しにしてやる
Great scene select


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