へへ……

あしたのジョー2 (1980年)

旅…旅もいいな……

 先日、物凄く久方ぶりに“あしたのジョー2”のTVシリーズを、DVDで観直した。
 ぶっちゃけ、きっかけになったのは最近購入したCD“あしたのジョー・ソングファイル”なんですけどね。
 これで今頃になって妙に盛り上がっちゃったりして、その勢いのまま全47話を、日曜2回で一気観ですから。
 やっぱ吸引力があるわ、このアニメ(笑)
 脚本の良さに加え、全編を貫くスタイリッシュな出崎映像は、今観ても充分鑑賞に耐えるしの。
 ホント名作ってのは、時を経ても尚、色褪せないもんなんだよなぁ……

 しかし意外だったのが、作品から受ける印象が以前のそれとは随分と違った点である。
 ま、TVシリーズだと高校の頃、オンエアを観たっきりだからな。
 青臭いガキんちょと、それなりに歳を食ったオッサンでは、そりゃ観方も変わるというもんだ。
 以前は、その末路も含めて単純にジョーみたいになりたかったし、生きてみたかった。
 何よりも―― 観ていてボクシングの勝敗に酷く拘っていた気がするのだ。
 例えば、クライマックスのホセ戦でも、最後にホセが老人のように白髪頭になっているのを見て、溜飲を下げまくっていたからなぁ。
 あれで「流石のホセも引退だろうな」と思えるから、“これからの人生”を捨てて戦いに挑んだジョーとの間尺にあう、っていうかさ(苦笑)
 どうしても試合に負けて勝負に勝った、みたいにならないと、何か納得出来ないという。
 ま、ガキの時分だと誰でもそんなそんなモンだろうし。

 ただ今現在のオレだと、やはりホセの家族の事が妙に気にかかるワケだ(笑)
 一家の大黒柱があんなにされて、ついお気の毒な気持ちが先に立つっていうかさ。
 矢吹丈という、死神同然の漢に見込まれたのが運の尽きだったんだろうねぇ。
 つか、マジにジョーと対戦したボクサーは、みな碌な末路を辿っていないからな。
 特にアニメはその辺をすげぇ自覚的に演出していて、オリジナルキャラのレオン・スマイリーなどは、かなり象徴的な描写になっているもん。
 スポーツとはいえ、もはや普通に命のやり取りのレベル(笑)

 だからこそジョーはボクシングを余人の介入を許さない、一種の聖域みたいに認識しているんだろうし、その拳闘稼業へ従事したボクサーたちに対して、例えどんなに落ちぶれようが畏敬の念を持って接するのだろうさね。

 あ、それと感情移入の対象が、ガキの頃とは違うってのも面白いッス。
 というのも正直な話、今回観直して一番感情移入したのが、意外な事に“ゴロマキ権藤”と“ブンヤの須賀清”なんである。
 連中のジョーに対する真摯な想いが、視聴しているオレ自身の想いとすげぇ重なっちまったからなぁ……
 何気に権藤とか見せ方もメチャ渋いしね、そのゴツイルックスがヤケにカッコ良く見えるのよ。

 ホセ戦の前夜、ウルフと談笑するジョーを遠目に、明日の健闘を祈って1人グラスを掲げる権藤とか、そりゃもう最高なワケで(笑)
 観ているこちとらも、思わず手元にグラスを用意したりね(片手で届く範囲に酒が常備してあるってのも、何だかなぁ…アルコールは控えるんじゃなかったのか?)

 そうそうお酒といえば、須賀とジョーが2人で元太平洋バンタムチャンピオンの焼き鳥屋に行く件も、また良いんである。
 ジョーのボクサーという人種に対する想いがヒシヒシと伝わってくるし、それを干渉し過ぎずに見守っている須賀も実にイイ。
 ジョーが元チャンプに敬意を表してコップ酒を最後にもう一杯頼んだり、須賀が立ち去り際に「また寄らせてもらうよ」と一言かけたり……連中の何気ない行動が、いちいち味わい深いのである。
 とはいえ、原作の権藤だとアニメほどの魅力を感じないのも事実である。
 アニメオリジナルの須賀なんかも同様なんだが、やはりコイツラってアニメスタッフ(=出崎監督)の投影だったんだろうね。
 大人の視線で矢吹丈というヒーローを見つめ、評価する役割を担っている、っていうかさ。

 彼らの言動は常に厳しいモノだし、むしろジョーに対して挑戦的な気分させ持ち合わせているように見える。
 しかしだからこそ、ホセの言う「ジョー・ヤブキ……彼は何処から来て、何処へ行くのか?」みたいな、根の生えていないジョーの生き様に憧れ、その潔さに敬服し、そして目が離せなくなっていくんだろうね。

 須賀にいたっては、最後の最後で己が本分すらも捨て去ってしまうからなぁ。
 自分の本にジョーを思い入れタップリに“複製”する事で ホンモノのジョーをイミテーションにしたくなった……のかもしれない。
 所詮、須賀というフィルターを通した矢吹丈にすぎないワケだからね。

 そして印象の変わった最たるキャラは、やはり“ヒロイン”白木葉子だろう。

 ガキの頃の“ムカツク金持ちのお嬢様で、何を考えているのかワカンねぇ冷血女”――という印象が、ほぼ180度変わってしまったからな。

 ジョーにマジ惚れしてるのが実によくわかるし、原作の告白シーンから逆算して製作されているせいか、原作以上にウェットな感じすらする。
 あの抑揚のない喋り方も、キャスティングが本来狙っていただろう“クールさ”とは真逆の、不器用な女の可愛さを強調している感じだし。

 つかこの女、今観るとスゲェ車の運転が荒いんである(笑)
 いや、マジに常にアクセル全開なドライビングで、映像的にいつ事故ってもおかしくないくらいのレベル。
 ……こりゃワザとやっているでしょ、出崎監督?
 心象演出っていうかさ、軽くなっちまいそうなんでここで具体的に書くのは止めておくがね。
 とにかくその気性の激しさは、ジョーと同質のものに感じるほどである。

 んで描写的に興味深いのが、ハワイでのジョーとの一件だろう。
 人気の無い夜のビーチで葉子はジョーに車の運転を任せるのだが、無免許のジョーにまともな運転が出来るはずもなく――
 2人してジェットコースターばりのドライブを楽しむ羽目になるのだ。

 ここでね、葉子が笑うんである―― 普段は見せない表情で心底楽しそうにね。
 自分と同質のジョーに笑ったのか?
 それとも自分以上に荒っぽい運転をするジョーに呆れて笑ったのか?
 ――いや、ひょっとすると、自分ではやはりジョーに敵わない、と笑ってしまったのかもしれない……

 原作にある“葉子がジョーの足跡を見つめる場面”(パンチドランカーの伏線)を、わざわざカットまでして挿入したエピソードである。
 間違いなく出崎監督的に、重要な場面のはずだ。
 さて、ここからは深読みを承知で、思い入れタップリに書かせてもらいます(笑)

 後半のOP〜“Midnight Blues”が、真っ白に燃えつきた後に旅へ出るジョーの心象風景なのは、ラストシーンからして明白。
 それは体の朽ち果てたジョーの見る、終わる事の無い夢なのかもしれない。

 その夢の中―― 黄昏時を迎えたジョーは、廃車の中をズタ袋一つで軽快に彷徨う。

 そして、もはや走ることの敵わないスクラップのハンドルを握り、ひどく楽しげに運転ゴッコに興じるジョー。

 いつしか廃車の山が、“闘えなくなったボクサーたち”の屍の山に見えてくる。
 動かなくなったボディを、口笛を吹きながら飄々と動かそうとしているジョー……


 ジョーは、おそらくもう二度とグラブをつける事は無いだろう。
 何故なら“彼のグラブ”は、既に葉子の手元にあるのだから。


 これは……これは例えようも無い程に、深き感傷である。


2007年4月1日(日) 


 上に書いたレヴューを読み直して、今更ながらに思いついた事があるので、ちょっとばかし補足をしておこうと思います。
 キチンと書いておかないと、何かモヤモヤとしたモノが残りそうなんでね(笑)

 〜というのも、実はアニメ版“ジョー2”において“車(の運転)”ってのは、かなり重要なキーワードになっているような気がするのだ。

 後期OPの“スクラップの山”が“ボクサーたちの屍の山”に見えると言う事は、前回にも書いた通り。
 ま、観直した直後の素直な感想だし、そう深くは考えていなかったんだけどね。
 しかし本編をよっく顧みると、“それ以外”にも車絡みでかなり意味深な描写がある事に気付いたのである。
 やはり何といってもレオン・スマイリーだろう。
 そもそも彼の死は“自動車事故”だからね。
 燃えさかる事故現場(クラッシュした車)をジョーが呆然と見つめる場面は、かなり強烈な印象を放っているし、あのレオンの車がそのまんまOPのスクラップへフィードバックしていく構造になっているのだ。

 実際、しばらくしてジョーは後輩たちとのロードワークの最中、パンチドランカー症状のために、よりにもよって “そのスクラップ置き場”で昏倒してしまうのだから。
 ここまで符号が重なると、スクラップ置き場がイメージとしての“ボクサーたちの墓場”に見えてくるのは致し方のない事だろう。

 しかし出崎監督にとってジョー2における“車”とは、どんな意味を持っているのかね?
 おそらく、ヒントは二つある。

 一つは紀子の運転するワゴン車。
 何故、“あの時期”に紀子が免許をとって、そして車の運転を始めたのか?
 何故、彼女の運転する車が“ワゴン”でなければならなかったのか?
 何故、慣れぬ手つきの必死な表情で、隣に西、後ろにジョーと子供たちを乗せて、彼女自身の手で海へ“遊び”に行かなければならなかったのか?
 しかもこの時ジョーは、冗談めかしてではあるが「紀ちゃんに命を預けようや」とまで語っているのである。
 ――この辺を各個でイメージしてみると、何となくだが今作におけるキャラが車を運転する“その意味”ってヤツが見えてこね?(笑)
 もう一つのヒントは、これまた印象深い須賀の駆る“ファイヤーバード・トランザム”だ。
 アメリカ本国において決してカタギは乗らないと揶揄されていたマシンでもある。
 そういった意味で社会的なアウトローの須賀清を体現しているんだろうし、やはりそのボンネットに描かれた“ファイヤーバード”の紋章は、かなり強烈なものがあるんだよね。
 ファイヤーバード……これを人と人を渡り歩く情報屋(渡り鳥?)のイメージで捉えるべきなのか?
 それとも、もしかしたら彼が密かに憧れ崇拝しているのかもしれない―― 炎の中から幾度となく蘇る“不死鳥”(=矢吹丈)のイメージで捉えるべきなのか?
 なにせハワイでも色違いのトランザムを乗り回す須賀である(笑)
 本人的によほど強いコダワリがあるんだろうて(ただのバンク対策かもしれんけど)
 それと付け加えておくならば、
 車ではないのだが、乗り物としての“動物”の描写も実に意味深。

 ハワイでホセとジョーが乗馬バトルを演じるでしょ?
 で、勝敗やその意犠牲はともかく、ジョーの少年院時代の回想でよくでてくる「豚に乗って脱走を試みるジョー」と比較してみれば、この乗馬シーンには様々な感慨が沸いてくるハズ。
 立ちふさがる強敵―― 過ぎ去った時間と培ってきた成長。
 そして当時からあいも変らぬ、ジョーの本質。
 いやはや……

 でね、面白い事に上でツラツラと挙げてきた場面は、全て原作にはないアニメ・オリジナルなんである。
 となると、一連の描写は間違いなく出崎監督的な狙いがあっての事だと、確信せざるを得ないワケで。
 そしてそこまで考慮していくと、前回書いたハワイでのジョーと葉子のアバンチュールにも、もう一つの意味を付加しなければならなくなる。

 つまりジョーのひどくワイルドな運転には、やはりパンチドランカー症状の発露も、その意味性に含まれるのではないのか?――という解釈である(表現方法は違えど、一連のシーンが原作で描かれた“海岸に残るジョーの足跡”と、同じ意味あいを持つ事になる)
 しかし原作とは違い、迂闊にも葉子はソレに気付けず、ジョーの激しいドライビングを彼と一緒になって“愉しんで”しまうのである。
 これって、帰国後に腑抜けとなったジョーを葉子がパンチドランカー症状とは見抜けなかった展開と、本質的に同じなのだろう。
 とりあえず、彼女にしては珍しく“取り返しのつかないミス”を犯しちまっているんだよね。
 っていうか、その終始冷静ではいられない浮ついた感情こそが、男女関係の妙ってヤツなのだろうけど(笑)
 奇しくも白木の爺さんが、序盤に危惧していた通りになっちまったわけでさ。
 それと“葉子の車”で印象に残ったのが、来日したDr.キニスキーを出迎えた際の描写である。
 キニスキーがジョーの症状を末期的パンチドランカーと断言した時、葉子のロータスはアイドリングのせいで、まるでボディ全体がブルブルと震えているみたいなんだよね。
 まぁ、ひどくあからさまな演出ではあるが、こういった技法は全編通して“此処だけ”にしか使用されてないのもポイント。
 つまり何らかの意図があって“こういう風”に見せているのは間違いないワケで。

 やっぱ、ドライバーの分身みたいなイメージなんだろうねぇ……。

 実際、そう考えていけば、紀子のワゴン車や須賀のトランザムも妙に納得出来るし。
 朽ち果てたスクラップが、ボクサーたちの末路を暗示している、っていう最重要事項もね(笑)
 しかし意外な事に、ジョーは葉子の車に乗るの、そんなに嫌いじゃないみたいなのよ。
 実際、何度か2人で“夜のドライブ”もキメているし―― もっとも、その殆どが葉子のダマシだったってのはご愛嬌って事で(笑)
 ま、深読みすれば、ジョーは「葉子が魔女だとしても、ホセと戦わせてくれるんであれば構わねぇ」とか言ってたからね。
 “葉子にノる”のは、ジョー的に問題ないんだろうさ。

 しかし“あしたのジョー2”のレヴューで、肝心のジョーの“戦い様”に一切触れず、こんな戯けた事ばかり書いててドーするよ、オレ(笑)
 それだけアニメ本編の懐が深いって事なんだろうがさ。
 
 つーワケで、本日はここまで!


 
                     
2007年4月13日(金)

 


お前のシャウトが忘れられない
Great scene select



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