ガフとデッカード

ブレードランナー (1982年)

- He say you BLADE RUNNER ? -

 まさにSF映画の金字塔である。

 個人的には“2001年宇宙の旅”“猿の惑星”“スターウォーズ(ep4)”と並ぶエポック・メイキングだと思うし、以降のSFヴィジュアルに与えた影響はあまりに計り知れない。
 ――とはいえ25年前に製作されたこの作品は、名画というにはあまりに歪な、数回に渡る仕様変更を辿っているのも事実である。

 そもそもこの“ブレードランナー”という作品には、以下のように全部で5ヴァージョンのフィルムが存在する。
 1 リサーチ試写版(ワークプリント版)
 2 初期劇場公開版
 3 インターナショナル・バージョン
 4 ディレクターズ・カット
 5 ファイナル・カット

 んで問題なのは、映画の編集でよくあるパターンの“ただ単に尺が長かったからカットした”〜もしくは“過激な描写だからカットした”〜ってワケじゃないって所だ(“初期劇場公開版 ”と“インターナショナル・ヴァージョン ”の違いだけが、この普遍的なパターンに当てはまる)
 で、その変更理由というのが――

 いわく「ハッピーエンドじゃないから」
 いわく「難解に過ぎるから」

 とまぁ、こういう如何にもハリウッドショウビジネス的な身も蓋も無い理由により、“ブレードランナー”という作品はその本来の姿を見せていなかったのだな。
 ただ個人的にはビデオで何度も観直したせいもあり、“初期劇場公開版 ”と“インターナショナル・ヴァージョン ”が脳内に刷り込まれていたのも事実なんだよね。
 だから正直に言って、大幅変更のため作品解釈が根本的に変わるという評判だった“ディレクターズ・カット ”には大して興味を持てなかったし、むしろ自分の中の“ブレード・ランナー”のイメージが崩れる気がして「ネガティブに観ようとはしなかった」部分もあったのだ。
 まぁ、それだけ熱狂的にこの映画が好きだったとも言えよう。
 実際、以前欲しかったDVDは“インターナショナル・バージョン”であり、その時点では“ディレクターズ・カット”しかソフトが無かったために、手元に置いておきたい映像でありながらも購入出来ないでいたのだ。
 ところが月日も流れ、“ブレードランナー”という作品に対する想いもある程度冷却されたのかね?
 つい最近、何とはなしに“ディレクターズ・カット”を観てしまったのだ。
 すると自分でも意外なんだが、「まぁこれはこれでオッケーじゃん」と妙に納得してしまったんである。
 〜というかある意味、ようやくこの映画が色んな意味で腑に落ちたという(笑)

 でその感慨は、今回の“ブレードランナーアルティメット・コレクターズ・エディション”を購入し、“ワークプリント版”と“ファイナル・カット ヴァージョン”を観たことによって、更に強固なモノになったと。
 つまりこの映画はデッカードがレプリカントである事によって、初めてその構造やテーマが見える作りになっているんだよね。
 リドリー・スコット監督自らがそう断言しているんだし、誰が何と言おうと(笑)それ以外の解釈をする気は、既に毛頭ナイッス。
 だってこの映画の表現を偏執的なまでに仕切っているのは、おそらく監督自身なのだろうから(メイキングを観るまでもなく)

 実際“デッカード=レプリカント”だと想定すれば、映像展開に納得できる部分が多くなるのだな。
 何故、彼はプロのレプリカント・ハンターなのに、レプリカントの寿命が4年である事を知らないのか?
 資料室でその説明をするブライアンが、デッカードに見せる意味ありげな表情の理由とは?(この場面をブライアンがデッカードの真実を知っていると仮定して鑑賞すると、ものすごく説得力があるんだよ)

 加えて、レプリカントはメモリー(記憶)を大事にするために、ことのほか大量の写真を保持している、というデッカード自身の説明(笑)を裏付けるが如き、写真の氾濫するデッカードのマンションの私室。
 不覚にも初見の際は、レーチェルの記憶の件やロイ・バティの写真のせいでその辺をウヤムヤにされ、雰囲気に流されながら観てしまっていたもんな。
 まぁ他にも細々とした描写が結構あるのだが、とりあえずラストのオチとしての“デッカード=レプリカント”であるからして、表層的には“隠された描写”になっているのも致し方ないんだが。

 ただそのオチから逆算して解釈していくと、なかなかに深いテーマが浮き出てくるのである。

 やはり何といっても観客の視点としての主人公が、実はレプリカントだった(人間じゃなかった)っていう表現がスゴイよ。
 だってデッカードの語る過去(離婚歴やブレードランナー特捜班を辞めた経緯)は、しょせん劇中で間接的に知らされた情報に過ぎないのだからね(回想という形での直接的な映像表現は、一切無し!)
 じゃ観客にとっての確かなメモリー(情報)とは一体なにか?

 それって実は、劇中でデッカードが体験した事のみ、なのである。

 つまりデッカードと観客の得る情報量は、多少の差はアレ、ほぼ同等とも言えるのだ。
 そしてその情報量を出来るだけ増やす為に、あれほどの過剰な映像表現になってしまったとも考えられる(つまりは映像の説得力ってヤツ)
 しかし最後の最後になってユニコーンのメモリーで「お前はレプリカントだ」と告知されても、実を言えばいまだデッカード(=観客)はれっきとした人間なのである。
 だって観客の貴方が、ある日突然「お前はレプリカントだ」と言われても納得できないでしょ?(笑)(※1)
 仮に過去の記憶が全て作られたもので、体がレプリカントであったとしても、「オレはオレだ。オレは人間だ」と言い切るのは間違いあるまいよ。
 そして理性的に(レプリカントである)現実と照らし合わせる事によって次第に沸き上がってくるであろう激しい感傷こそが、おそらくはヒロイン・レーチェルが物語中盤に抱いていた“ココロの在りよう”に違いないのだ。
 そういう構造を理解した上でラストのデッカードとバティの決闘を顧みると、これがまた何とも趣があるんだよね〜

 だってバティが語る自らが体験してきた「人間には想像も出来ない光景」とは、デッカードの植えつけられたソレとは違い、おそらくホンモノの記憶に違いないのだから。
 いみじくもタイレル社の社長が死の直前、バティに優しく語りかけたように――

 ホンモノのメモリーを手に入れた死に逝くレプリカントと、いまだニセモノのメモリーしか持たない新型(?)レプリカントの対決――
 これこそが、クライマックスにおける根源的な決闘劇の本質だろう。(※2)

 そして両者を繋げるキーワードは、間違いなく“女”
 つまりロイ・バティの逆襲とは、近い将来においてレーチェルを失う(かもしれない)デッカードの、行為そのものかもしれないのだ。
 だってデッカードの指を潰す際、バティはゾーラとプリスの2人分しか折らないんだよ。
 ――リオンの恨みは晴らさないでいいのか?っていう(笑)(確かにリオンを直接殺したのはレーチェルなんだが、バティはそんな事まで知るまいよ)

 因みにガフの人形によれば、バティは“男根を屹立させた男”でもある。
 一方のデッカードにとっても、レーチェルとの行為は数少ない現実的なメモリーの一つなんだよね……

 んで、未公開エンディングその2が、やはり色んな意味で衝撃的(笑)

 ラストの山道の逃避行なんだがね。
 アレの行き先は、やっぱデッカードの部屋に飾ってあった写真の場所なんじゃないのかなぁ?
 ――別れた奥さんと一緒に暮らしていた、っていう。

 デッカードが己をレプリカントだと自覚した上で、レーチェルと一緒に“記憶を確かめる自分探しの旅”へ出るって解釈は、まぁその、ラストシーンとしては何ともロマンチックでね?
 もっとも――

「奥さんとは長かったの?」
「私たちは一対でつくられたのよ」

 〜等といったレーチェルの台詞は、デッカードからすればスゲェ怖いモンだろうけど(笑)
 実際、フォードの演技も絶妙にビビっている風だし。

 カットされたとはいえこの場面、何気に大好きなんだよね〜
 監督の主張は継承されているし、非常に判り易い説明にもなっている。
 まぁ、あまりに俗っぽくて、それまでのハードな雰囲気が一気に台無しになっちゃうんだけどさ(笑)

 レプリカントだって人間と同じなんだなぁ……と素直に実感できるんだよ、こーいうやりとりって。

                                           
2008年2月6日(水)






※1 だって観客の貴方が、ある日突然「お前はレプリカントだ」と言われても納得できないでしょ?

 〜まさにこの拒絶反応こそが“デッカード=レプリカント”という表現を、絶対に認めたくない一部の観客(ファン)&スタッフの心情なんだろうねぇ……
 確かにロイ・バティはデッカードを人間だと思い込んで死んでいったんだろうけど、それと「実はデッカードがレプリだった」ってのは両立できる表現なハズなんだがなぁ。
 それにその“納得出来ない現実”を、中盤のレーチェルは泣きながらも受け止めたってトコロがミソなのよ。



※2 ロイ・バティたちネクサス6型は製造後、経験を重ねる事で後天的にヒトとしての感情が形成されちまったモデル。

 対してデッカードやレーチェルは、始めから感情ありきで製作されたモデル(ネクサス7型?)
 おそらく人為的に記憶を植え込んで、感情をある程度コントロールできるように設計されたタイプかと。




 


Time to die …
Great scene select




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