バルター博士の憂鬱

バトルスターギャラクティカ Season 1(2005年)

- 僕は神なんか信じない -

 “本物”である。
 一つのSF映像作品として、いわゆる一つのTVドラマの在り方として、紛う事無く“本物”の体裁を、このバトルスター・ギャラクティカという作品は持ちえているのである。

 正直ショックであるよ……いやマジにさ。
 前作の“宇宙空母ギャラクティカ”がショボイと思いながらも妙に好きだったワタクシとしては(詳しいレヴューはこちらにて)、数年前に今作のスチールを見たときにいまいちピンと来なかったんだよねぇ。
 スターバックが女だとか、サイロンがパツキンのネーちゃんだとか、そーいう部分である種の色眼鏡をかけちまっていたっていうか。
 だから当然これまでもノーチェックで、今回もCSで観た友人たちに「面白い」と教えてもらわなかったら観なかったかもしれないんだよなぁ……そー考えるとちょっとゾッとしてきたり(笑)
 ただその友人たちの反応に予感めいた“匂い”を感じ、観てもいないのにDVD-BOXを購入したのだから、我が嗅覚はまだまだ錆付いていなかったのだと一安心(笑)

 ま、個人的な事情はともかく、だ。
 このギャラクティカ、もうどーしようもないくらいによく出来ているのだな。

 ものすごく“SF”しているのに、キャラクタードラマの部分が“普通以上”に面白いなんて、なんか夢でも見ているんじゃないのか?――っていう。
 そもそも“SF”ってのはマジにやろうとすると、本質的にヒューマニズム先行ではドラマがつむぎ難いジャンルなんだよね(その辺りは“2001年”とかを顧みれば、ヒジョーにわかりやすいかと)
 ところがこのギャラクティカは、キャラ各々のプライベートなドラマが基点となった上で、ドラマ全体のSF的テーゼが表出する構造となっているのだな。
 例えば、頻繁に描かれる恋愛模様(ぶっちゃけラブ&セックスシーン)がある。
 とにかく毎回必ずといって良いほど“そういった場面”があり、実際そこいら辺を「視聴者に媚を売っているようで軽薄だ」と槍玉にあげてる人も少なくはないようだ。

 ただちょっと考えてみてほしい。
 性欲とは人間の根源的な欲望の一つであり、人の営みの根幹であり、子孫を残すために必要な行為であり――
 そしてその欲望の為に、人は時に過ちを犯す、という事を。
 で、ギャラクティカという作品は、明らかにそういう視点でもってドラマを表現しているんである。
 それはバルターの犯した“許すべからざる大罪”の原因でもあり、ディーとビリーがブリッジでイチャついているのを見て“人類の行く末”を決断するアダマ艦長であり、スターバックのほとんどトラウマに近い過去への懺悔なのである。

 そして人は子を成し、守るべき家族を作る。
 しかしその家族への愛情すら、時と場合によってはそのエゴイズムとして人を誤った行動へと駆り立てるのだ。
 アダマ・アポロ親子の状況を省みない、あまりに強硬なスターバック捜索―― そして引き出される「もしお前(アポロ)だったら、私は絶対に捜索をあきらめない」というアダマの発言。
 このくだりには、やはりヒトとして逃れられない真実の重みがある。

 加えてカプリカでサバイバルを続けるヒロとシャロンの二人も、そういう観点から見ていくと実に面白い。
 サイロンたるシャロンはヒロへの愛を芽吹かせ、サイロンを裏切る方向で逃避行を続ける。
 一方シャロンを添い遂げるべき恋人として受け止めていたヒロは、その正体を知った事で強烈な拒否反応を起こしてしまう。
 そんな二人を再び繋げようとしているのが、今までに交わしてきた愛の行為の結果―― シャロンの妊娠なのである。
 サイロンの妊娠ってのも凄いが、視聴者的にはこれまでの展開でそういう事象への予感めいたモノを感じていたのも事実。
 〜というのもバルターがね、サイロン探知機の結果を全部隠蔽するような事を言うじゃない?
 「面倒な事に巻き込まれたくない」っていう、いかにも彼らしい近視眼的な自己防衛なのだがね――
 これも見方を変えると、実はバルターって「サイロンと人類を分けて考えてない」んであり、つまり彼は無意識にせよ「人類とサイロンの共存」をギャラクティカの人々に強いているという事になるんだよ。
 この辺から「あ〜なるほどね〜」みたいに感じ、そしてシャロンの妊娠と続けば、おのずと見えてくるものがあるワケで。

 しかしこのガイアス・バルターってキャラクターは、実に魅力的である。
 どーしようもなく卑怯で矮小でド助平な(笑)心底許すべからざる人物の筈なのに、見ていて何故か応援したくなるという。
 やっぱ人間誰しもが少なからず「バルター的」な部分を持っている、という事か。
 彼が意に反してサクセスしていく展開が、妙に快感だったりするのも何ていうかね〜
 何だかんだでモテキャラだしの。
 で、これまではキャラクタードラマからのアプローチを見てきたが、今度は逆の方向からこの作品を見てみよう。

 つまり“リアルな映像感覚”がもたらすモノである。

 とにかくこのギャラクティカ―― いわゆる“宇宙モノ”でありながらも可能な限り現実的な描写をしようとしているのは、衆目の一致するところだろう。
 宇宙空間では基本的に無音だし(最低限の効果音は、空気のあるところから響いてくるような遠いカンジ)、ギャラクティカをはじめ敵も味方も使用するのは実弾兵器のみ(つまりレーザーやビーム兵器は無し)
 ヴァイパー戦闘機はクラッシャージョウばりの細かい姿勢制御ノズルで機動し、戦闘時も機体を斜めにしながら飛んでいったりする。
 カメラワークの方もスタッフが語るように、ドキュメントタッチの手ぶれ上等な演出となっている。
 つまりあんまり「作った映像」というのが存在せず、しかも外(宇宙)も艦内も意図的に統一した見せ方をしているため、VFXとドラマが旨い具合に融合しているんだよな。
 これってつまり「あ、特撮場面だ」とかいって冷めたりする局面が、非常に少ないという事でもある(勿論、まったく無いワケでもない)

 加えて役者も皆抑制の効いた渋い演技をしているために、全体としてかなりリアル(ありえそう)な映像になっていると言えよう。

 ……しかし月並みに「リアルな描写だからSF的に優れている」という事を言いたいワケではない(そーいう側面も否定はしないがね)

 ポイントとなるのは後半に噴出してくる“神話・伝説”要素の表現だろうね。
   
 コレがなんつーか、意外に胡散臭いんである。
 大統領やバルターの暗示するコボル神話〜伝説の再来が、観ていて全然説得力を持たないっていうかね。
 スタッフも意図的に、そーいうフェイクっぽいニュアンスで表現しているように感じるし。
 つまりアダマたち軍人が頭を抱えるように「現実的に考えれば“それ”はありえないだろう」と(そもそもアダマは“地球”の存在すら信じていない)

 実際、大統領の場合は鎮痛剤による幻覚(つまりドラッグ)が事象解釈の根底にあるし、バルターにいたっては脳内サイロンの導き〜神の意思である。
 確かにストーリー上の“現実”と聖典に記された伝説・予言は、ある程度符号しているのかもしれない。
 しかしノストラダムスじゃあるまいし、“実際の我々”がそんな“戯言”を信用できるはずないではないか。
 スターバックが手にする博物館に展示されていた“アポロの矢”も、見た目はヒドクちゃっちく、伝説の一品といった趣きは全く無いしの(笑)
  でもね、“そんな現実”だからこそ、逆に劇中で神話が具現化されたらものすごいカタルシスがあるんだろうな、とも期待してしまうんである(“聖なる予言”ではその片鱗が垣間見えている)
 そしてこういった構造こそが、今シリーズにおける最大のSF的快感を生み出しているのは間違いないのだ。

 ただ残念な事に、このシーズン1はちょうどその境目のトコで終わってんだよね〜(苦笑)
 アダマは撃たれるし、バルターは脳内サイロンとコボルの遺跡を探索するし、スターバックはアポロの矢を取りにいったカプリカでヒロたちと再会しちまうし……

 あ〜早く続きが観てぇぜ!

                                           
2008年8月3日(日)

 


僕にはできないと思っているんだろ?
Great scene select




HOME