どうしてっ!

ソルジャーブルー(1970年)

- アンタの笑顔がまた見られて -

 この度、随分と久しぶりに“ソルジャーブルー"をDVDで観なおした。
 しかも往年の日本語吹き替え版だから、感慨もなおさらである。

 つか、年齢的にこの映画を初めて観たのはTV放映版だったんだよねぇ……しかも当時我が家にはビデオが無かったんで、一回こっきりの視聴だったし(ま、持ってたとしてもどんな映画か知らなかったんで、当然録画してなかったろうけど)
 で、感銘を受けたワタクシは、何だかんだで大学時代にLDで観なおしたり、上京した後サントラCDを購入したり、神保町で中古のパンフを手に入れたりと、“明日に向かって撃て!”あたりと同列で大事にしてきたニューシネマの名画なのである。
 しっかしこの映画の何が、そこまで私を惹きつけるのかねぇ?

 目を背けたくなるほどに残酷な戦争〜ジェノサイドの描写か?
 アメリカ社会の自己否定〜当時のベトナム戦争に対するアンチテーゼが鮮烈だったからか?
 それとも単純に、蛮性と知性を兼ね備えるキャンディス・バーゲンの美しさか?
 ロイ・バッドのどこか軽快で、それでいてたまらなく哀愁が漂う音楽のせいか?
 バフィ・セイント・マリーの歌う主題歌が、心に染み入るからか?

 ……まぁ、確かにいろんな意味でセンセーショナルな映画ではある。
 しかしハードコアなスタンスだから、とか――
 それまでに決して描かれることが無かったリアルな西部開拓史の一部だからといって、この映画にここまで思い入れを持っているワケじゃ、決してない。

 そしてそれは、やはり観終わった後に感じる“そこはかとないロマンチシズム”なんだろうと、今回の視聴で再認識。
 ――そう、何気に「ロマンチック」な映画なのだよ、この作品はさ。

 白人のインディアンに対する侵略戦争である。
 だから冒頭はインディアンによる騎兵隊への襲撃が描写され、結果的に倍返しなラストのシャイアン族襲撃(大虐殺)が描かれる。
 その狭間で、まるでロードムービーの如く旅を続けていくのが、若き騎兵隊の二等兵と、気の強いインディアンに通じる白人娘という按配。

 ホーナス二等兵は仲間を映画冒頭で皆殺しにされ、加えて二年前には父親をインディアンに殺されているという設定である。
 しかも“国の正義”には盲目的に従っている事が、この青年の戦士としての純粋さを際立たせる。
 一方、シャイアンの酋長と結婚していた過去を持つクレスタは、幾度と無く騎兵隊によるインディアンの虐殺を目にしており、同族である白人社会に嫌悪を持っている。
 しかし生活習慣から完全にインディアンに同化できない事も悟っており、物語の冒頭においてシャイアンのキャンプを脱走し白人社会への復帰を試みているのだが……

 そんな二人がインディアンと騎兵隊の相見える戦場で運命的に出会い、互いに生き残る為に西部の荒野を手に手をとって旅をする。
 ――とはいえ、正反対な価値観を持つ二人である。
 当然憎まれ口を叩きあい、唾棄しながらの行脚となるのだが、やはり何だかんだで協力しあわなければ生き延びることは出来やしない。
 食料を調達しなけりゃいけないし、突然の襲撃者にも対応しなけりゃいけない。
 寒い夜には身を寄り添って暖をとる必要もある。

 で、やがて若い二人は主義主張を越えて、個人として惹かれあっていく……
 とまぁ、つまりは意外にありきたりなラブストーリーだったりもするのだな。
 演出もどこかコメディー調であったりと、じつはそれほど映画全体が鬱描写なわけじゃないのよ。
 風刺性も強いし(文明社会の表現としての靴下と帽子の対比とか)、実際笑いをとる場面も多々ある。
 しかしそこが素晴らしく良いんだよ、バランス的に。
 根底にある種の能天気なポジティブさを感じるっていうか、キャラクターたちに妙な生命力を感じるっていうかさ。
 じゃないと、ヘビーなテーマ性に押し潰されそうになるもんな。
 つまり冷静に現状を認知し前向きな生き様を模索した結果、本能的な恋に落ち、優しさから互いが相手を思いやる事によって、初めて己が価値観も柔軟に考え直すことが出来るという構造なのだ。
 これがひどく自然で説得力あるんだよ。
 いくら正面きって論理的に相手を説得しようとしたって、それは一方的な価値観の押し付けあいでしかないもん。
 で、これが白人とインディアンの関係にもオーバーラップしていくと。

 ホーナスはクレスタの立場を思いやり、クレスタもホーナスの事を思いやる。
 しかしそんな二人がようやく(別々に)たどり着いたコロラド州騎兵隊野営地では、シャイアン一族総攻撃の準備が進められていたのである――
 クレスタは馬を駆り、逃げ出してきたシャイアンキャンプに向かう。
 総攻撃を知らせ、“みんな”を逃がすためである。

 ホーナスは連隊長に総攻撃中止を進言するも、あっさり却下され……

 そして、いよいよ開拓史上稀に見る血の惨劇の幕が開く。
 緒戦においてシャイアン戦士の部隊を圧倒的な物量で壊滅させた騎兵隊は、その勢いのままテントに火をつけ、燻り出された女子供を次々と犯し、極めて“非道な手段”で殺していくのであった。

 クレスタは隠れていた子供たちの集団から引き離され、目の前で起こる惨劇にただ泣き叫ぶしかない。
 ホーナスは「やめろ……やめろ……」と“仲間たち”を止めようとするも、その狂気のうずまく戦場においてあまりに無力であった。

   
 で、こんな陰惨で救いようの無いオハナシの、どこがロマンチックだって?(苦笑)

 それはもう、ひたすらあのラストシーンに集約するんだよな。

 結局、反逆罪で逮捕され、馬車に引きずられていくホーナス。
 そしてそれを見送る、焼け跡に佇むクレスタ。
 お互いの姿を認めた瞬間、二人の表情には苦笑とも取れる笑みが浮かぶ。
 だがそれは、決してニヒリズムの発露などではない。
 厳しい現実を直視した上で、胸を張って生きていく事を決意した(手錠に繋がれている現状の)ホーナスを、クレスタが素直に褒め称えたのである。
 「もうバカなんだから、アンタって……」
 ――といったクレスタの、絶望の中から搾り出すような心の台詞が聞こえてくるかのよう。

 しかし!
 私が真に感動したのって、実は“ココ”じゃないのだな。
 画面をよく観ていると、実はホーナスの他にも馬車で引きずられている騎兵隊員が何人かいるんだよ!
 それってつまりあの大虐殺の中で、ホーナスのような行動をし、明確に意志表示した者が“他にもいた”って事なんである。
 それがどんなに勇気のある行為か……クレスタの婚約者の一連の描写を見ればよくわかるというもの。

 いや人間、ホント捨てたモンじゃないよね……
 そしてその名も無き“ソルジャーブルーたち”こそが、ある意味真の主人公なのかもしれないのだ。

 何故なら彼らは、ラストシーンを見届ける我々観客の写しなのかもしれないのだから――


                                           
2009年7月26日(日)

 


ほんとに良かった、アンタの笑顔がまた見られて
Great scene select




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