ゴミタメの中で折り上げるは、とても小さな一輪の花

第9地区 (2009年)

- ヴィカス・ファン・デ・メルヴェの花 -


 ほんと、ここ最近はSF映画に当たりが多いッス。
 この手のモノが大好きなワタクシとしては今まさにヘヴン状態なワケですが、それでも映画館に足を運ばずに家庭用ソフトでの初鑑賞が殆どなのは、くった歳のせいか?―― はたまた、引きこもりがかなり進行しているのか?
 いやいや、それなりにレベルアップした我が家のAV環境のせいである、とな(笑)

 さておき“第9地区”である。
 異様な前評判に“ギャラクティカ”と同様の確信を持ちながら、ブルーレイ+DVD二枚組を躊躇せずに予約購入(しっかしどーいう仕様なんだろね、ま、そんなに高価ではないから良いけどさ)
 同時期に発売される“月に囚われた男”にちょっと後ろ髪を引かれもしたが、価格が高めなので後回しにする事に(“2001年”や“ソラリス”と共に、“アウトランド”の名を出す監督さんなら信用できるぜ)
 で、観た感想なのですが……

 ずばり、スゲェ面白かったッス!

 とりあえずアパルトヘイトだとか、社会派風刺劇だとか、そういうテーマ的な側面で語られがちな今作ではありますが、そこら辺は個人的にぶっちゃけドーデモ良い感じ。
 だって描写があまりに露骨(ストレート)で、ワザワザ作品から注意深く読み取るような労力が全く必要無いんだもの。
 ドキュメント風の映像が、ニュース・報道番組を観ているような解りやすさを観客に提供しているっていうかさ。
 観ていて「ま、世の中なんてこんなモンだよね〜」といった、良くも悪くも“わかったような茶の間の感想”しか出てこないのである。
 当然製作者もその構造に自覚的で、この作品ならではの倫理的な説教(偏った正義感の強制みたいな)を殊更にかまそうとはしていないしの。
 〜というか、そもそも公平・平等を謳うニュース・ドキュメントでは、個人の“思想”や“主義”を強調したらマズイのである(只でさえ作り手側の視点が、どーしても入るというのに)

 要するに、世間で評されるほどに鮮烈でポリティカルなメッセージ性は放出されてないというのが、個人的な感想なんだよね(内包されているとは思うけど)

 じゃ、この映画の何が素晴らしいのか?

 それは、もう天才的な映像のペテン師に騙される事への快感につきようて(笑) 
 つまり前述したドキュメント風アドリブ感全開の映像から、いつのまにか作為的なドラマ映像に切り替わる事への気持ちよさ、である。
 その映像の移行があまりにスムーズで、主人公たちのフィクショナルなドラマが、まるでドキュメント映像の延長にあるような……つまり現実の延長であるかのような錯覚を引き起こすのである。
 巨大な宇宙船や昆虫型エイリアンが跋扈する世界であるはずなのに、殆ど違和感を感じず極めて普通に見られるという意味では、名作SF〜エイリアン・ブレードランナーの監督リドリー・スコットを越えているのかもしれん(アートワーク論は別にして)
 そしてこの映画がSFとして優れているのは、この点につきるとも言えよう。

 なぜならこの“第9地区”―― 逆にSFとしては致命的な欠陥もあったりするのだな。
 それはSFというジャンルが本来が持つであろう『作品独自のサイエンスな理屈付け』という部分である。
 これが他作品と比べても、大幅に欠如しているのよ。

 つまりこういうことだ。
 “ザ・フライ”における“変身”は荒唐無稽なりにそれなりの説得力があったのだが、この“第9地区”の主人公“ヴィカス”の変身には全く持ってソレを感じられなかったのである。
 結局、映像から与えられる情報に“ヴィカス変身”の原因はあっても、その理由付けが全くされてないんだよね。
 そもそもエイリアンのテクノロジー自体が摩訶不思議科学の枠を出ていないし、何故に宇宙船の飛行パーツの燃料(?)を浴びたら、人間の遺伝子が組み変わるねん?という。

 当然、作り手側も何かしらの設定は用意してたんだろうけどさ、何ていうか、むしろ作劇上あえて説明を入れなかったような感じ?
 ――この映画の採用しているスタイルとして、描くに描けなかったというかね。
 なぜならこの作品は、徹頭徹尾、現実感あふれるドキュメント風映像で観客を魅了し、騙し続けなければならないのだから。
 どこにそんな嘘がバレるような『設定の説明』をワザとらしく入れる余地があるかと?

 もっと具体的に言えば、カメラを回す人類側(マスメディア・MNU)が持つ情報以上の事柄は写せないし、度々詐欺のように織り込まれるドラマパートでもヴィカス個人が知りえる程度の説明しかできないのである。
 慌しい展開のせいか、それとも余程重要な機密なのか、クリストファーも『その部分』にはまったく触れようとしなかったしね(あの時点のヴィカスが、彼にとって完全に信用できる人物では無かったのも大きい)
 つまり今作におけるSFとしての説明不足は、作品全体のリアリティを優先したための弊害とも取れるのだな。
 〜ていうか、ここら辺がこういった即興的な映像スタイルにおける語り口の限界なんだろうねぇ。

 ただ重要なのは、この映画の志向性が上記したようなSF設定の理屈付けそのものにではなく、SFヴィジュアルの現実化〜普遍化に向けられているという事であり、その取り捨て選択により、作品本来が放つ魅力は何ら損なわれてはいないという事実である。

 そして、ここで再びハッキリさせておきたいんだが、レヴューの冒頭にも書いておいたが、この映画の肝は『人種差別問題』とかいったポリティカルな面では、決して無いという事である(確かに重要な要素の一つではあるが)
 では、今作の本筋とは何か?

 もちろん観た人なら、解っていらっしゃるでしょう。
 この映画が“ヴィカス・ファン・デ・メルヴェ”という1人の平凡な男の、その精神的な成長を見届ける為の物語であるという事が――

 当初は、純朴ではあるが、それ故に何とも軽薄で嫌味な体制側の日和見人間として描かれている彼。
 しかし彼〜ヴィカスはヒョンな事から“人”としての肉体を奪われ、と同時にエイリアンの体と能力を得ることによって、まさに絶対絶命の窮地に陥ってしまうのである。
 なんと、世界中が彼の敵に回ってしまうのだ。
 精神的な同族たる人間は勿論、肉体的な同族になりつつあるエイリアンですら、彼にとっては許容できない存在なのである。
 結局、逃避行を続けるヴィカスの心の支えは、自宅で彼の帰りを待つであろう愛する妻〜タニアへの想いだけとなってしまう。
 もっともタニアが現状のヴィカスをどう感じているかは、結構ファジーな感じで進行するんだけどね。
 それこそリアルに考えたら、タニアがどう思っているかなんて養父の反応と同様、悪い方にしか考えられないもん。

 ただヴィカスの妻を想い続けるという行為が、極限状態で進退窮まった彼自身にとっての唯一の拠り所らしいのは、観ていてヒジョーに納得できる部分ではある。
 まさに最後にすがり付く“蜘蛛の糸”っていうかね。

 つか結局何だかんだで、愛する者を想い求めるという極めてピュアな行為が、このリアルで下種なお話を動かす原動力(つかキーワード?)になっている点も興味深い。

 エイリアンの人体実験場で呆然と佇むクリストファーを突き動かしたのが、ヴィカスの「子供の事を考えろ!」という恫喝だったし、最後までヴィカスが絶望の淵に落ちなかったのも、タニアへの想いがあったればこそ。
 もっとも元の体に戻れるかもしれんと聞かされた後、「三年待ってくれ」というクリストファーに逆切れしてより事態を悪化させてしまうのは、まぁヴィカスの自業自得ではあるが(笑)
 でもヴィカスの「冗談じゃないっ!」って気持ちも痛いほどわかるのが、マジにこの映画の凄いところだろう。
 そんだけリアルなのだ。

 しかしいろいろあって、結局ヴィカスはクリストファー親子を、己が体を張って逃がすことになる。
 彼の体はもう半身程度がエイリアンになってしまっているため、同族を慈しむ気持ちが沸いてきたということなのか?
 それこそSF的に考察すれば、肉体の変化に則したそういう精神状態への移行は、確かにあり得るのかもしれないがの。
 しかし、ここは敢えて“否”である。

 やはり「肉体は魂の器にすぎない」といった、良くある―― ある意味、ひどく真っ当で高潔な考え方をすべきだろう。
 つまりヴィカスは己が肉体に行動を抑制される事無く、魂の衝動からエイリアン親子を救おうとしたと、そう受け止めたいのである―― 観ているこちら側の気分としてはね(笑)(オチで描かれるヴィカスのタニアに対する行動もあるし、まぁ間違いなかろうけど)

 無論、クリストファーが三年後には帰ってきてくれて自分の肉体を元に戻してくれるという打算も、ちょっとはあったかもしれない。
 しかしエイリアンのパワードスーツを身に纏い、孤軍奮闘でクーバス大佐たちと戦う今の自分に、数年先の未来があるとはヴィカス自身思ってもいなかったハズ。

 すげぇよ、まさにヒーロー誕生の瞬間である。
 あの情けない小役人だった男が、いろいろあったとはいえ、故郷に帰りたがっている息子を抱く父親に、無償の献身をするのだから。
 もちろん、嫌味で尊大なクーバス大佐に対する意地があったのだろう。
 自分ら(ヴィカスやエイリアン)を迫害し続ける人間たちに対する、溜まりに溜まった怒りもあったのかもしれない。

 しかし大佐のシャトルを狙って撃ったミサイルを、パワードスーツがヒョイと掴んだ瞬間は、もう何と言ったら良いのか……

 いや、もうホント、この映画を観ていて良かったなぁ、と大感激しましたもん。

   
 で、このパワードスーツが、またイカしててさ。
 見た目がほとんど“ガングリフォン”な感じで、よく観察するとしっかりエビにも見えるというね。
 しかもヴィカスが装着する事で人間がエイリアンの能力+外装をまとうという、一つの表現ともなっているのだ。
 結局この構造が、ラストの“完全体ヴィカス(心は人間、体はエイリアン)”に繋がっていくあたり、もう見事としか言いようが無いッス。
 実にすんばらしいっ!

 あとすんばらしいっと言えば、ヴィカスを演じるシャルト・コプリーの演技力。
 序盤と終盤じゃ、もう全然違う人間に見えるんだもん。
 特殊メイクのせいかもしれんが、それにしたって驚きの表現力だす。

 ―― 閑話休題

 で、クリストファー親子は無事地球圏を離脱し故郷の星を目指し、ヴィカス自身も何とか危機を脱し世間から完全に姿をくらますという、そんなエピローグを迎える事になるのだがね。
 ここでのオチのつけ方が、実にロマンチック。
 ヴィカスの切なる想いというヤツがこれからも、ひょっとするとタニアにだけには好意的に伝わっていくのかもしれん―― という一連の描写は、諦観に満ち満ちたこのあまりにクソッたれ(Shit!)な世界において、クリストファーとの間に芽生えた友情と共に、数少ない希望の光となっているのよ(〜と同時にドキュメント・パートにおける“希望の光”として『元同僚によるMNU上層部の告発』が挿まれているあたり、やはり巧みな構成であるな)

 しょせんは現実の出来事だからって(いや、ホントはフィクションなんだけどさ)訳知り顔で、何でもかんでも諦めちゃいけないって事だよな。
 そしてこれこそが、このドキュメント風SFアクション映画の、まさに肝の部分なんだろうさね。

 しっかしこうやって書き上げてみると、何となくだが“ソルジャーブルー”のレヴューと似たような感想になっちまったよなぁ……
 ホント、つくづくこーいうタイプのお話が大好きなんだね、ワタクシってば(笑)

 とりあえず、このページのTOPにも載せたラストショットには、ヒジョーに心地よい余韻を感じましたとさ。

 ゴミタメの中で折り上げるは、とても小さな一輪の花―― みたいなね。
 
                                     
      
2010年8月15日(日)

 


三年後に必ず戻ってくる
Great scene select




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