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機動戦士Ζガンダム 星を継ぐ者 (2005年)

- 新約〜U.C.EXODUS -

 いやぁ、予想以上に面白かったなぁ、劇場版Ζガンダム。

 TV版Ζは正直つまんなかったから、これは嬉しい誤算でおます。
 まぁ、“逆襲のシャア”のレヴューでは何かそれらしい事をイロイロと書いてはいるがね〜
 TV版Ζを個人的な好き嫌いで語るとすれば、何だかんだで富野作品としては最底辺のカテゴリーに入るんですよね(無論“ΖΖ”も同様。“ブレン”や“ガーゼィ”よりも下)

 とにかく物語の肝となるはずのキャラクタードラマが終始陰鬱で、魅力を欠片も感じられなかったのだ。
 カミーユとファの関係だって、ドラマ的には何てことなかったし(毎回あのエンディングを観てりゃ、視聴者はそれなりに期待するだろうにさ)
 フォウとの出会いにしても、ララァの1件があるからね。
 初めから“最低の悲恋”になるのはバレバレで、視聴者的にはポシティブな視線で2人の逢瀬を楽しめないのよ(アムロも劇中で水を差すような事を言ってるしさ)
 カミーユとジェリドとの因縁だって、そもそも実にくだらない理由(笑)に端を発しているからなぁ(バーン〜ギャブレイと、この時期の富野ライバルは、作品を発表するたびに劣化しているッス)
 そもクレジットでは一番上(つまり実質的な主人公?)に表示されるクワトロの描写が実に淡白でさ、ちょっと腕の立つ“一兵士”でしかないんだもん。
 あの剃刀のような佇まいの“赤い彗星”は一体どこにいっちゃったの、っていう……(ホント“赤い彗星”も地に落ちたものよのぉ)
 で、そんなドラマに付随する幾多の戦闘場面も、毎回毎回おんなじようなグダグダをループするのみで、具体的な戦況の変化も非常に解り辛いしさ。
 結局、番組終盤になって思い出したようにレギュラーの殆どが敵味方問わずバタバタと戦死していくのである。
 しかも劇中においてカミーユのΖガンダムを全然カッコよく見せてくれないし、クワトロの百式に至ってはハマーンのキュベレイにズタボロに……ホンマにこいつら、ニュータイプのエースパイロットかよ(泣)
 こんな有様じゃ決して戦闘のカタルシスは感じられないし、そもそも観ていて楽しくないでしょ。

 つか、そこら辺がΖにおける富野御大の目論見だったってのは、充分解るんだけどね。

 何かさ、戦闘行為を否定したいが為に、戦闘描写の本質を見失っていたようにも思えるんだよね、この時期の御大。
 “戦闘行為”とは、基本的に己の生存を賭けた、殆ど全ての生命体にとって至上行為なハズなんである。
 つまり客観的に見れば、それは“熱いモノ”でなければならないのだよ。

 確かに人の死というのは、耐え難いほど哀しく辛いものである。
 出来ればそういった“極端な生存競争”を無くしてしまいたいのが、文明社会の志向性というものだろう。
 だからこそ“平和”という言葉が、群を抜いて尊いのも事実だ。

 しかし哀しいかな、ヒトの本質は他者の殺し合いに対して極めて興味津々であり、そして際限なく楽しむ事を欲する。
 巷に溢れる映画やドラマ・小説・ワイドショウなど、それこそ様々なメディアを例に出すまでも無く。
 古のローマ時代から連なるバリトゥードなどの格闘ショウも、不特定多数の人間にとっては必要不可欠なエンターティメントではあるまいか?
 あれだけの壮大なスケールで“戦争否定”を描いた“イデオン”だって、実は登場人物の大半が程よく熱血しており、「俺たちは生き延びたいだけなんだ」というテーゼに対してひたすら前向きに行動してるだけなんである。
 だからこそ画面上でインフレーションしていく破壊や殺戮に対して観客たちは血をたぎらせ、それと同時に不安や後悔、奪う辛さ、失う哀しみを共感と共に味わえるのだ。
 瞬間的な高揚感と共に、一種独特の後ろめたさを感じるっていうかさ(とはいえ、こういった描写もやりすぎると、ヤマトの1作目における〜ガミラス本星を徹底的に破壊尽くした後の、古代の「我々は愛し合うべきだったんだ」〜みたいになってしまい、視聴者的にも思わず「ヲイヲイ」と突っ込みを入れたくなるんだがね(笑))
“Vガンダム”だってあれだけハードコアの作風でありながらも、V2のミノフスキードライブがオーバーロードして“光の翼”が展開していく様は、やはり描写的に燃えるのである。
シュラク隊の連中も、やたら熱く“泣き”を魅せるし(笑)

さてさて、ここでようやく本日の本題―― 劇場版Ζガンダムである。

まず戦闘描写がそのTV版時のスタンスから改善されており、実はかなり燃え燃えな印象となっているのだ。
やっている事自体はTVシリーズとほぼ変わらんはずなのだがな〜(かなり端折ってはいるがね)

これは今現在の富野監督のスタンスが、そういう風に見せているのは間違いないだろうね。
勿論、“キングゲイナー”以降の御大、ということである。
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ハードな現実を見据え、妙な幻想に逃げ込まずに、前向きに生きる。
ただただ、己が未来へとポジティブに突っ走る。
そこでは甘えた“停滞”なぞ許されはしないし、そもそもそんな人生ってつまんないだろ?

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さて、上3行は“キングゲイナー”から垣間見える御大のメッセージを、ワタクシ“個人の解釈”で抽出した文章である。
つまりキンゲにおけるエクソダス論っちゅうかね。

で、オモロイ事にこの解釈が、今回の劇場版Ζにもズバリ当てはまるのな。
つまりシンプルに私見を語れば、この劇場版Ζガンダムとは“ニュータイプたちのエクソダス物語”に他ならない、と。

 だからカミーユによるMk-2強奪の主な理由が、従来もっとも印象が強かった“ジェリドへの反発”(個人的なコンプレックスからの八つ当たり)から、“横暴なティターンズMPへの反抗”(反権力へのアクティブな行動)へと大きく変化しているのだよ。
 もっとも「なんだ、男か」というジェリドの台詞もあるにはあるが、 ここが富野監督一流の編集妙技(笑)
 そのジェリドとカミーユの出会いは冒頭ではなく中盤の回想として描かれており、その結果―― MPに尋問されるシーンがカミーユ登場のシークエンスとなっているのだ。
 これだけで、随分とキャラの行動や印象が変わってくるのである。
 すげぇよ、マジに(笑)
 そしてアムロの存在がTVシリーズより印象が強くなっているのも、上記した“ニュータイプたちのエクソダス”を描きたいからではなかろうか?
 特にクライマックスが“アムロ再び”だからねぇ……見事なハマリ具合というか、なんというか。
 まさに“新約”を謳うだけはあるか(笑)

 そして副題の“星を継ぐ者”である。
 有名なSF小説からの引用ではあるがね、これも実に意味深。

 まずは“星”とは、オープニング映像を観れば明らかなのだが、間違いなく“地球”という惑星そのものを指し示しているのだろう。
 まぁそんなのは、映画を観れば誰だってフツーに判ることなんだがね。
 ただ問題なのは、コロニーや月等を含めた広い意味での“地球圏”を指しているんじゃなさそうな事なのだ。
 というのも、そもそも“ニュータイプ”とは進化した“宇宙適合者”であり、普遍的な“宇宙生活者”という概念だったハズ。
 つまり地球とは新人類(ニュータイプ)にとって産まれ出た“母星”でこそあれ、本来的には彼らが帰還すべき場所ではないのである。

 ところが今回の劇場版第1作では、構成的にエゥーゴの大気圏突入によるジャブロー攻略戦がメインエピソードとして描かれているのだ。
 ――これはもしかしたら、ニュータイプたちの地球帰還(地球襲来)を意味しているのではなかろうか?
 で、定義として示されているのは反地球連邦組織(エゥーゴ)=宇宙生活者=ニュータイプである。
 対して、連邦(ティターンズ)=重力に魂を引かれた者=強化人間(連邦のニュータイプ)なのだ。
 そうなると“地球(重力に支配された“翔べない”大地)に帰還(エクソダス)したニュータイプ”とは、一体どんな意味を持つのか?

 平気で核爆弾や細菌兵器を使用するような現人類では、やはりこの先駄目なのか?
 新たなる星の後継者とは、やはり彼らニュータイプなのか?

 だがしかし、“宇宙生活者”が重力の底にて覇者となる矛盾もまた、明確に存在するワケだし……

 今回の新約“Ζガンダム”の核心は此処にあるのだろう――おそらくはね。
 ここしばらくの富野御大がニュータイプ思想を否定し、“地球への帰還”をテーマに作品を作り続けているのは、周知の事実である(Vガンダムからキングゲイナーまで、全作品がそういったベクトルに向かっている。おそらくは新作“リーンの翼”もそうなるのではないかと……)

 もし上記したように“星(地球)を継ぐ者=ニュータイプたち”だとすれば、それは一体どういう事なのか?

 ま、この辺のメッセージは、以降の劇場版Ζガンダムを観てみないとワカラン事だしね、今ここでグダグダ語っても始まらないか(笑)
 何にしても楽しみだよなぁ。
 最後にこの映画を観て、非常に興味を引かれた点を一つ挙げまする。
 それはこの映画の物語そのもの……つか、構成の仕方である。

 というのも、この劇場版第1作――

 1幕〜グリーンノア(ガンダム強奪)
 2幕〜停戦とバスクの姦計(カミーユ両親の死)
 3幕〜大気圏突入(ライラとカクリコンの死)
 4幕〜ジャブロー攻略戦(レコア・カイ救出、核爆弾起動)
 5幕〜ロザミア襲来(アムロ再び)

 ――といった具合に、大きく分けて5つの舞台(戦場)で構成されているのだな。
 で、この映画の凄いところはホンキで“舞台劇”なんだよね、見せ方がさ。
 つまり様々な意味を背負ったオールキャストが一つの舞台上に結集し、普通の作劇では有り得ないほどの極めてドラマチックなやり取りを表現するのである。
 その圧縮された内容の密度は凄まじく、そのパートだけにかぎれば限りなくリアルタイムに近い展開となっているのだ。
 しかもその舞台となるのは、富野監督お得意の“戦場(バトルフィールド)”である。
 異様なほどの空間胎動、っていうかさ。
 まさに「ヒトの意思が集まりすぎてオーバーロードしているのか?」ってな具合である(笑)
 特にカミーユの両親が死ぬ件とか、大気圏突入時のライラ(ガルバルディ)vsカミーユ(Mk2)は、すげぇ吸引力があるよ、うん(大気圏〜ジャブローと舞台が変転する中で、ジェリドが必死になってライラ機を探す演出は、観ていて息詰まるものすら感じるっス)
 もっとも再編集映画だからこそ、こんなスタイルになったんだろうけどさ。
 いろんなエピソードをまとめてやろうとしたら必然的にこうなった、ってカンジ(笑)
 まぁ、典型的な“怪我の功名”ってヤツですな。
 ただねぇ……このやり方だと舞台と舞台の間――
 つまり幕間が明確に存在する事になってしまい、時間経過などが曖昧になってしまうという欠点もあるのだな。
 大気圏突入の時点で、カミーユやエマがエゥーゴに参加してどのくらい経ったのか、実際よーわからんしね。

 だがその辺の描写は割り切って諦め、舞台調の展開を徹底したのが、この作品にとっては吉と出たようだ。
 何よりも妙な迫力があるし、テンポも良くグイグイと引き込まれるのである。

 それとこの幕間を利用して、富野監督はなかなかシャレた事をしているのだ。
 つまり重要キャラクターの会話劇によるオリジナル場面を幕間に挿入する事によって、前後の舞台設定を説明し、尚且つ新たな物語の肉付けをしているのだな。
 特にオモシロイのが喫茶室でのクワトロ・カミーユ・レコア・エマの会話と、アウドムラでのハヤトとカイの会話である。
 何かね、休憩時間に役者たちが楽屋で世間話をしているような風情なのよ(笑)
 舞台上(戦場)では見せないような、ひどくプライベートな表情をしているっていうかね。
 あのクワトロですらそうだし、両親が死んだ後のカミーユのくたびれ方も「さも在りなん」なんである。
 カイとハヤトもさ、TV版Ζの時分には「随分と大人になったなコイツラ」と感じたものだが、実はホワイトベース時代から何ら変わりが無いという(笑)

 こういうのってメチャ面白いし、あの年齢になってこんな見せかたを思いつく富野監督には、正直頭が下がる思い出ございます(しかし“またもや”再編集映画……ここまでくると、なんつーか“業”を感じますな)
 ま、この監督は個人的にも、作品によってかなり好き嫌いが分かれるんだがね。
 しっかし“キングゲイナー”以降は実にイイよなぁ……

 このまま突っ走って欲しいっすよ、うん。

 あ、それとエンドクレジットの最後に登場する“お澄ましポーズ”のフォウとベルトーチカが、これまた富野御大らしくないのデス
 ホント、どうしちゃったんだろ?

 いや、勿論こーいうのも含めて“今現在の富野作品”が好きなんだけどさ(笑)


2005年11月10日(木) 


フッ…正確な評論だな
Great scene select


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